Vol.02

 「〜その2〜」

 私が一級建築士の試験に合格したのは昭和49年の試験である。

今から35年も前のことだが、確か製図の試験課題は鉄筋コンクリート造3階建か4階建の「(企業の)研修所」だったと記憶している。

合格して直ちに建築士免許証の申請を行い、翌年の昭和50年1月に一級建築士免許証の交付を受けた。

その時の免許証の番号はまだ5桁で9万代だったが、今は6桁で30万代になっているので、平均すると一年で6500人ほどの一級建築士が誕生していることになる(しかし昨年度など近年は3000名程度の合格者となっている)。

 私が一級建築士となり、何故?建築設計・監理を生業とするようになったかの経緯をお話しすると、語れば恥ずかしい内容なので、正直言って気は進まないけれども、隠さずにお伝えしてみる。

私は昭和47年に広島工業大学を卒業後、叔父の紹介で山口県内の建設会社に就職した。当時この会社は山口県では県内資本企業としては建設業者の第一人者であった。

同年4月1日が初出社の日で岩国市内にある本社を訪ね、そこで初めて社長とお会いし、話しをする機会を得た。社長とは30分程度の会話であったが、その時の会話が実に下らない内容で、社長の話を聞きながら「この会社は早いうちに辞めよう」と思った。

実を言うと、その当日、その場で辞めたかったのだが、叔父の紹介で就職したこともあり、さすがにその場では「辞めます」とは言えなかった。

 社長との挨拶の後、50歳前後と思われる建築部長の肩書きを持つ人物が運転する車に同乗させてもらい、岩国市内で工事中の建築現場を案内して貰ったのだが、この建築部長の所作には全く品がなかった・・・と言うより下品極まりなかった。

社長、部長、共に人の上に立つ人物と思うには、ほど遠く感じ、ますます嫌気がさして来たが、叔父の紹介が心の重しになり、何とかその日は無事におわり、諍いを起こさずに済んだ。

 勤務地は徳山市(現在は周南市)にある支社に配属され、建築現場員(監督と呼ぶにはおこがましいので・・・)として勤務する事となった。

最初の赴任先の工事現場は山口県大島郡大島町(現在は周防大島町)で開業する10名程度の入院設備がある診療所(外科)の新築工事だった。

 この工事現場には柳井市内の工業高校を卒業した35才くらいの男で、2級建築士の資格を持つ現場所長が総責任者として鎮座し、私はその下の下、一番下の「丁稚」のようなものだった。

建築現場では兎に角、毎日が「見るもの、聞くもの」初めてのことばかりで、正直言って戸惑ってしまい、工事現場の中をウロウロするばかりだった。

ある時など土方のおばさんから「監督さん!○○を持ってきてや!」と言われたのだが、その○○が判らない。

今まで聞いたこともない言葉で見当もつかず、それは道具らしきものであろうと想像はつくのだが、何のことかさっぱり判らなかったので、現場事務所に入り、所長に聞く「○○が欲しいと言われたのですが、何なのでしょうか?」。現場所長は一瞬きょとんとした目をしたが、笑いながら「そこにある、それだ」と指さしてくれた。それを見たとき、恥ずかしさとみっともなさが入り交じり、何とも言えない心境になった(今から思えば恥ずかしい話だが、しょうもない学校でも一応、大学を出ている自負心はあった)。

大学は出たけれど、土方のおばさんが言う道具の名前すら判らないとは・・・学校は一体何を教えてくれたんだろう・・・建築学科を卒業したにも関わらず、専門用語が全く判らないのだ。

これは絶対どこかがおかしい・・・大学を卒業したって何ら役に立てていないし、そういえば、専門用語の講義などはなかった・・・。

現場の皆が使っている言葉とその意味が判らなければ、いかに日本国内で日本人だけが働いている建設現場であったとしても、それは外国にいる状態に等しい。

実を言うと「学校の教育は何処かがおかしい・・・」と思うようになったのは、この時からである(この十数年後に大学の非常勤講師を仰せつかってから、もっと激しく思うようになるのだが、そのことは別の項目でいずれ詳しくお伝えする予定にしている)。

そして、その後は多くの職人が現場に出入りして工事が進んで行くのだが、彼等がこなす仕事を傍で見聞きする度に、同じ様な思いをすることが続いた。

 会社から報酬は貰っているものの、毎日の仕事がさっぱり判らず、給料を貰うのが恥ずかしい気がしていたので、大学って一体何だったのだろう?の思いは消えることがなかった。

そのような中で、仕事の解らない私は毎日工事現場が進んでゆく状態(収まり)を、家に帰ってから簡単な手書き図面(収まり詳細図のようなもの)にして記録したのだが、約8ヶ月掛かった工事が終わる頃には大学ノート一冊分の記録量になっていた。

 工事現場では型枠大工の社長や土方の親父さん、職人の方々には好意的に接して貰い、何故か解らなかったけれども、一番下っ端の私でも可愛がって貰ったものだ。

しかし、前述べたように、現場には「一国一城の主」とも例えられる現場所長がいるのだが、ここの現場所長は社会人に成り立ての私が見ていても「もう少し何とかならんか?」と思える人物であった。

現場では、しょっちゅう職人を怒鳴りつけ、その親父(社長のこと)を呼びつけては「金は払えない」とか「工事のやり直ししろ」と言うのである(実際には工事代金を支払わないことはないのだが・・・)。

そして、現場事務所の中では一日中、女性のような甲高い声を張り上げ、どうでも良いようなつまらない事や、下請け職人に対しての不満を口にし、イライラしている状態を見せつけ、現場に出ると下請け(立場の弱い者)を怒鳴りつける。

下請けの親父さん達からは「川田はん、あんな所長にはなるなよ」とよく言われたけれども、本当に仕事の内容が悪いから言われているのか、そうでないのかについては、当時まだ未熟な私には判断がつかなかった。

兎に角、誰から見ても、この現場所長は会社の上司以外に対しては威張り散らしていたのだが、ある時次のような場面に出くわし、私は大きな衝撃を受け、入社日に思った「この会社は辞めよう」の思いは、この時に決断の引き金を引いた。 
  
                                     続きは後日