Vol.03

 「〜その3〜」

 ただ、この現場所長は決して悪い人間と思える様な人物ではなく、どちらかと言えば「お人好し」の部類だったが、強い者には媚び、弱い者に威張りたがる小心者であった。

しかし、工事を着工して数ヶ月後のある日のこと、今まで「基礎配筋」や「2階床の配筋」の検査にも来なかった「設計(工事)監理者」が「R階(屋根のこと)配筋」の検査を行う為、突然現場にやって来たのである。

これまで一度も「設計監理者」らしき者が「配筋検査」に来ることはなかったので、私はてっきり、この工事は「自社の設計施工」とばかり思っていたのだが、そうではなかったということになる。

ちゃんと「設計監理者」が別にいたのだ。

当時、いくら「丁稚」のような無知な私であっても、「設計(工事)監理者」の下で行われている工事と、自由に工事が進められる「自社の設計施工」の区別は、数ヶ月も工事現場で働いていれば、この工事がどちらの工事であのるか・・・くらいは理解できる感覚は持ち合わせていた。

でも、このような工事の進み方の中で「設計(工事)監理者」が工事現場を監理に来たと言うことは、恐らくこの建設会社は建築主(診療所の院長)と設計施工で工事契約をしたけれども、自社では設計能力がなかったか、又は借り(恩義)でもある設計事務所に外注依頼したのであろう・・・との想像もついた。  

 そして、この「設計(工事)監理者」が工事現場内に入って、R階の配筋検査を行った。この監理者(検査員)は1人で来ていたが、まだ少年のようにあどけない顔をしている二十歳前後(工業高校を卒業して、まだ2〜3年)と思われるような者であった。

35才位である現場所長は、まるで揉み手でもする仕草のように、手を前に結び、少し腰を折った姿勢で若い監理者(検査員)の後をしずしずとついて行き、検査が終わった後の検査員との応答は、相も変わらず少し甲高い声で「はい!はい!」「判りました!」「ご苦労様でした!」「有り難うございました!」の繰り返しであった。

私は、日頃から現場では威張り散らしている男が、私より年下であろうかとも思われる「設計(工事)監理者」にヘコヘコしているその姿を見ていて思った。

仮に私が、この先十数年この会社に勤務して、現場所長に昇進し、一国一城の主と言われるようになったとしても、「設計(工事)監理者」に対しては、この現場所長と同じ様な対応をしなければならないのだろうか・・・と思うと目の前が真っ暗になり、将来に不安を感じた。

これは、この会社だから、この人物だからこの状態だという訳ではあるまい、建築現場の力関係自体がこのような仕組みなのだろうと想像し(後になって解るのだが、間違ってはいなかった)、これでは他の建設会社に入ってみても恐らく同じ事が起こるに違いないと思うと、その姿が将来の自分の姿と重なり、現場監督という職業が嫌になった(当時、何も解らないくせに随分と思い上がった考えであった事は反省しているし、これはそれぞれの役割の仕事を見たに過ぎないのだが、若気の至りである)。

 正直言うと、もともと私は建築が好きで大学の建築学科を志望したのではなく、高校生の時から、第一が「医師」又は「薬剤師」それがダメなら「弁護士」になりたかった(その後「薬剤師」は希望から外れたが、今でもこの想いは変わっていないし、一番の適職はこれらに間違いないと思っている)。

医師なら「赤ひげ」のような医者に、薬剤師なら「不治の病の新薬」の開発、弁護士になれれば「この世の巨悪」退治がしたかったのだ(子供の頃の夢だが、想いはいまだに続いている)。しかし、この世は時として非情とも言える事が起きるもので、私は「色弱」だったのだ。

小学生の頃はいつも色盲検査の時に引っかかっていたが、その後は検査がなくなるので、其のことをすっかり忘れてしまっていて、大学受験の間際になって自分が「色弱」であることを思い出したのである。

受験志望の大学に問い合わせてみたが、いずれも「程度により合格を認める」の返事ばかりで、結局は大学側の受験料稼ぎの犠牲にされてしまった。

 私は数学・物理は苦手なのだが、生物・化学が好きで、理科系に進んでいたけれども、受験のための勉強は大嫌いで、学校の成績は国立大学に合格できるほど良くはなかったから、受験は全て私学だった。

受験の願書を取り寄せると必ず同封されていたのが、合格すれば「何口の寄付金」を納められるかであったが、当時父親は勤務していた会社を数年前に、今で言う「リストラ」されたのだが、嘱託のような状態で仕事は継続していた。

「リストラ」される前後、両親は今後の生活(高校生一人・私立の中学生一人・小学生一人の子供がいた)のことで随分と悩んでいたように感じられたが、いざ嘱託を始めると、今までとは違い、思いもかけなかったような収入が入るようになり、元の同僚から羨ましがられ、中傷されたりした話を聞いた。

今までと同じ仕事をして、収入が何倍にもなったのだから、サラリーマンの経験しかない父親はさぞびっくりしたろうが、当時その恩恵に与れた私は有難く、寄付金についても快く同意してくれていた。

しかし、受験する前から「色弱」に対する不安は、やはりぬぐい去れず、今更になって文化系の大学に変更するわけにもゆかず・・・と迷っている中に、年上の二従兄弟が広島工業大学に行っている事を聞き、「滑り止め」のつもりで受験の願書を出してみた。

その時に「建築学科」を志望したのだが、その動機はと言えば、「機械工学」は油まみれになるからイヤだし、「電気・電子工学」は目に見えないものを扱うので、体質的に合わないからダメだ。

「土木工学」は橋やダムなどの工事だから、女がいない所ばかりに行かなくてはならないような気がしてイヤだし、「経営工学」なんて一体何のことなのかさっぱりわからないのでこれもダメだ。

と、自分勝手な消去法を行い、残ったのが「建築学科」だったというわけであるから、実に嘆かわしく恥ずかしいことであった。その上、当時この大学は駅弁大学以下と言われていて、文化系の学生が受験しても合格する大学と言われていたが、受験してみるとまさしくその通りであった。

受験科目は「数学」「英語」「物理か化学」の三教科であったが、試験開始から、いずれも二〇分程度で解答を全て書き終えてしまい、何問かの自信がない解答はあったが、合格は結果を待つまでもない事と、まあ、随分と自惚れていたものである。

 何処の大学より早く合格通知が来て、取り敢えず父親は入学金を払ってくれたが、その後、他の大学からの通知は全て不合格であった。

そして、私は幼い頭で悩んだ。建築学科に行って設計や工事をやりたいわけではないから、いっそのこと浪人して文化系に変更し、色弱を問わない法科を受験しようか・・・と思い、父親と遊びに来ていた友人を交えて話をしていたときのこと、その場に突然両親が信仰している宗教の宣伝士が家を訪ねてきた。

父親は「お〜良いところに来てくれた、潤ぼう(私の呼び名)がせっかく大学に合格しているのに、浪人しようとか言うので、先生!何とか言ってやって下さい」と言うので、私は「でも、なりたい職業ではないから・・・」と言えば、この宣伝士は「潤ちゃんどこに合格したんだ?」と聞くので、「広島工業大学・ぽん大の建築科」と答えたら、「いや、建築は良い、潤ちゃん建築に行きなさい!」と言われ、暫く押し問答が続いたけれども、私自身の心の中で、行きたい学校、学科ではないけれども、家から通学できるし、ましてまだ下に妹と弟がいる、いずれ大学が重なる・・・と考えると、両親に余り負担を掛けるようなことはすまい・・・との想いに加え、また嫌いな勉強を、それも「国語・古典」「社会」「歴史」をやらなければならないのか・・・と思えばが少し気が重くなり、建築学科入学を決断した。

実にいい加減な動機で決断したものだが、これは後に幸いすることになる。と言うのも、父親の収入の良い状態はその後長くは続かなかったからだ。

                      その後の大学での話は続くです。