Vol.05

 「〜その5〜」

 大学で学ぶようになってから何よりも驚いたことは、その講義内容であった。

四年制の大学において、その半分の一・二年の時は教養科目が殆どを占めていて、専門科目は僅かであったから、私は落胆した(現在は専門科目が多く取り入れられているようだが・・・)。

物理・英語・ドイツ語・歴史・社会学・数学・経済・体育など、何せ昔のことなので教養科目の全部は思い出せないのだが、兎に角教養科目と呼ばれるものがやたらと多かったと記憶している。

そしてその内容たるや、まるで高校の延長か、又は高校で学んだ以下のことを講義するものだから、面白くなくて、大学への足は自然と遠のいた。

もともと行きたかった大学でもなく、好きで選んだ建築学科でもない・・・との思いが拍車を掛け、必須科目の講義以外は大学の寮にいる連中と麻雀に明け暮れ、そうでなければ、パチンコ屋に行って気持ちの憂さ晴らしをしていた。

なんとも、親に対して申し訳ない事をしていたものだが、何せまだ子供である、心の整理が付かなかった。

 大学生活のことを話せば、女がらみのことなどで、まだまだ本当に面白いことが沢山あるのだが、この辺りは割愛して、これは・・・と思うことだけをお伝えしてみる。

 ある若い教授(教授になったばかりで、担当は必須専門科目)がいたのだが、この教授は創価学会の信者であった。そして、ある時から次のような噂が流れた「創価学会に入会し、仏像を買えば無条件で単位が貰えるそうだ」恐らくこの教授が学生の誰かにそう言ったのであろう。

それで、創価学会に入会した生徒が何人かいたようだが、私は「なんと馬鹿なことを言う・・・教育者として最低であり、言語同断である」との想いが湧き、教授に対する信頼度がまず低下した。

次は社会学の教授で鼻持ちならない奴がいた。と言うのも、アメリカかぶれのこの教授は講義でウソを言った。彼のウソは「アメリカの便所は、それは立派で便所を仕切る扉などは○○で造られていて、足下から天井近くまである」と言ったことだ。

私は、欧米人は大便と小便が別々に出る(日本人は大便時に小便も一緒に出る)ことを知っていたし、それ故に腰掛け便器で大便が出来る(大便時に小便が出ないので、和風便器のように金隠しが不要)からであろう、それ故に便所を隠す扉は膝から目線くらいの高さしかない。

この教授はアメリカに行った際、泊まったホテルがたまたま日本人向きのホテルであったのではないかと思い、「この野郎!誰も知らないと思って・・・」と思ってしまった。そして教授に対する不信感が更に増した。

 しかし、素晴らしい教授もいた。ドイツ語の先生だったが、ロクにドイツ語の講義などはせず、こう言っては講義の時間にドイツ語の歌を唄わされた。

「君たちがドイツ語を学んだからと言って、何の役にも立ちはしないし、恐らく使うこともないだろう。またこんな講義は面白くもないはずだ」そして続いて付け加え「まあ、いつの日か君達が外国旅行をして、ドイツを訪れことがあれば、飲食店に行ったときなどに、現地の人と意気投合し何らかの弾みで歌の一つでも歌わなければならないような状況になれば、日本人がドイツの歌をドイツ語で唄ったら、さぞ現地の人は感激してくれると思う」と話した。

この言葉こそ教育の原点であり、大学の講義だと私は感激した。また、神戸大学を定年退職した後に来ておられた測量学の教授もそれは素晴らしい先生だった。何処がと言うわけではないのだが、接していれば、人である、その素晴らしさは肌で感じるものだ。

最後に極めつけをお話しする。前述した社会学であるが、兎に角この教授が嫌いで、講義など聴く気もしない。しかし、そんな中、卒業するには「社会学・歴史・経済」の内のいずれか二教科の単位(選択必須科目と言う)を取得しなければならなかったのだが、歴史の単位は所得済みで残り一教科が残っていた。

四年生になったときのこと、社会学の単位未習得の学生達が呼び出され、この教授からこう言われた。「どうせお前達は試験を受けても合格点にはならないだろうから、私の本(講義で使用していた教本)を丸写ししろ!そうすれば単位をやる」

まあ、ある意味で救済措置と言えなくもない、しかし自分の書いた本を講義で使う目的で強制的に学生に購入させておいて、如何に自信があろうとも、丸写しとは・・・と思ったけれども、試験を受けるよりは良いか・・・と思い、当時交際していた他大学の女にアルバイト料を渡して写本を頼んだ。

そして、私は東京見物の資金を稼ぐため大阪の親戚でアルバイトをした後に、妹(東京学芸大学在学中)がいる東京へ行き、暫くそこの下宿で厄介になりながら、そこそこの東京見学をして田舎に帰った。

家に帰るなり、父親が「おい、大学から卒業できないと知らせが来ているぞ!」というので、そんな馬鹿な!頼んだ写本は写し終え、提出してある筈なのに・・・と訝しく思いながら大学に行き、社会学の教授と話した。

「本を写して提出したではないですか」「提出はしてあるが、中に飛ばして書いたところがあるから、ダメだ。完全に一言一句漏らさず写せと言ったはずだ」と言うのだ。

自分が写したわけではないから、どこが飛んでいるのか解らない。返却された写本を持ち帰り調べてみたら、わずか数頁だが確かに飛んでいたところがあった。頼んだ女がわざと飛ばしたのではあるまい。恐らくこの教授は、学生を使ってでも全部を読み合わせしたのであろう・・・何と暇な奴め!

恐らく、二百頁余りあるある本を写している時、偶然飛んだのであろうと思ったので、女を責めることはしなかった。そもそも自分がやらなければならないことを、気安い女を使い、金で解決しようとした自分に責任がある。

しかし、困った!就職先は叔父の紹介で決まっているし・・・さて、どうしたものか・・・試験は既に全部終わってしまっている。高々一教科のためにもう一年大学に行かなければならないか・・・しかしこれは暇を持て余すし、大学に納める授業料は一教科だけだといっても安くなるわけではない。

思いあぐねたえ据えに、心易くしていた機械科の教授(三菱重工を退職後教授として招かれていた方で、先では結婚の際に仲人をした頂いた)を訪ねて相談した。

経緯を正直に話してみると、「あいつか(社会学の教授のこと)・・・よし判った!ちょっと待て」と言って電話をかけ始めた。そして「あ〜○○だが、実は歴史の試験を当日風邪を引いて受けられなかった学生がいるんだが、何とかしてやれないか」と言ってくれている。「ウソも方便」とはこのことを言うのか!と、ツルッと出てくるウソに感激して、大人は凄い!と思った覚えがある。

そして電話でのやりとりの中で「受講届けは出しているか?」と聞かれたので「はい、出しています」と答えると、「ウン判った!それでは宜しく頼む」と言い電話が終わり、「口頭試問をするそうだから、勉強しておけ」と言われて「はい!判りました」と答えると、続いて教授は「しかし、たった一教科で、それも専門教科でなく一般教養で卒業できなくするのは本当にけしからん!」と怒っている(今までにも何らかのことがあったのであろう、この社会学の教授について良い印象を持っていないことを話の中で感じた)。

加えて「親も大変じゃないか!何の意味もない!」と口にした。流石に社会人として一流(一般)企業を勤め上げ、大学に招かれただけのことはある、重みのある言葉だった。

この教授の口癖は「満鉄(中国の満州鉄道のこと)を造ったのは儂だ!」で、当時の設計や建設苦労話の他、多くの為になる話をしてくれていた心温まる「人」であった。

 「口頭試問をする」ということだったので、教科書を読み待ちかまえていたが、一週間が経ち、十日が来ようとしているのに一向に連絡がないので、また機械科の教授を訪ねた。

「先生、何の連絡もないのですが・・・」と言うと、「そうか?おかしいな〜、口頭試問といっていたのに・・・」と言いながら電話をかけ始めたが、この日、経済学の教授は大学にはいなかったので、自宅にまで電話をかけてくれた。

そして電話でのやりとりの後、私にこう言った「レポートを提出してくれと言っているから、そうしなさい」そして「卒業の締め切りに間に合わなくなるから早くしなさいよ」と言い、経済学の教授の自宅電話番号とレポートを持ってゆくのに、住所が判らないだろうからと、自宅の住所まで教えてくれた。

二日後B5判のレポート十五枚を書き上げ、地方の名物ミカン羊羹と酒一升を持って経済学の教授宅を訪ねてお渡しした。

暫くして、卒業できることが決まったが、これにはまだ後日談があり、社会人として大切なことを学ぶ機会を得ることになる。

                               後日談は次回にします。