Vol.04

〜ハチの干潟〜

 先日、テレビの番組表を見ていた時のこと、「干潟」の文字に魅せられ「ハチの干潟」の番組をDVD録画で撮っていた(広島ホームTV制作)。数日後に家でこの番組を観たのだが、なかなか良い番組であった。

新聞のテレビ番組欄を見ても、最近は見てみたい意欲を掻き立てられる番組が本当に少ない中、地方のテレビ局(番組制作予算が少ないであろう・・・と言う意味)だが賞賛に値する出来栄えだと思っている。

 話は少し逸れるけれども、二週間ほど前だったと思うが、「週刊ポスト」という週刊誌の中に、曽野綾子氏(作家で元日本財団会長)の連載記事があり、その中で氏が「最近テレビ番組に面白いものがないけれども、私はそのお陰で本が読めたり、別なことに時間を使うことが出来るから、それはそれで良い」と言ったような内容のことを書いておられた。

 私は週刊誌では「週刊ポスト」と「ビッグコミックと(同オリジナル)」の三冊(いずれも小学館発行)は必ず購読している。なぜ「週間ポスト」なのかと言うと、他の週刊誌に比べると、連載ものには知的で面白いものが多く、政治経済関連記事の信頼度が高いし、中傷的な記事が少なくて好感が持てるからです。

又、「ビッグコミック、(同オリジナル)」などは漫画だけれども、その内容には心が洗われたり、人として生きる道を考えさせられたりと、とても良いものが多いと感じている。

得てして、購読者の興味本位になりがちで、えげつない記事や中傷記事を多く書く他社の週刊誌に比べて、きっと小学館という出版社は、社の方針に一本筋の通ったものを持っているのであろう。長い間購読していると、その方針下で編集している方達の姿勢や苦労、出版社としての社会的使命、誇りなどを、その内容から推し量ることが出来るものです。

実は少し前に映画化されて、好評であった「三丁目の夕日」も、原作は「ビックコミック」の連載漫画であるし、最近テレビで放送されている、貫地谷しほり主演の「あんどーなつ」も同じだ。別に小学館の宣伝をしたかった訳ではないのだが、以前、「今の世の中、こんな良いところもあるぞ!」と言うことも書いて欲しいと、本好きの方から言われていたので、つい、今日の主題を書く前段に書いてしまいました。

 さて、今日の主題の「ハチの干潟」ですが、「ハチの干潟」は広島県竹原市にある、手つかずの自然(元々自然とは手つかずのことを指すのだが、こういった表現をしなければ意味が良く伝わらない今の社会も悲しい)が残された干潟のことなのです。

その干潟を近年漁獲量が減少していると言う理由で、漁協が今ある干潟の藻場(魚介類の産卵場となる海のゆりかごのような場所)を埋め立てして、新しい藻場を作ろうと計画した。この計画に反対した一人の青年が、漁協の計画を中止に追い込んでゆく、二年近くに及ぶ奮闘の姿を記録した映像が番組「ハチの干潟」である。

この番組の主人公は、幼少の頃より自然の生態に興味を持ち、「ハチの干潟」の観察を続けていて、高校生の時から、何度か環境関係の賞を貰っているような好青年である。
そして番組の中では、このことを通じて、日本全国で同じような活動をしたり、現在も活動を続けている方達との交流の場面も出てくる。

その中で名古屋の話だが、干潟をゴミで埋め立てる計画(市議会が決議した埋め立て)を中止させた方々の記録も紹介されていて、今の世の中も捨てたものではないと、何かしら救われた思いがした。有名な学校へ進学させるために、受験科目以外の学問には世の中(親や教師、報道者達など)興味を示さず、力を入れない今、この青年の生き方を見て、本当にとても良いものに出会った感じがして嬉しくなった。

ここまでは、全てある意味、美談であり、賞賛に値する内容なのだが、この「ハチの干潟」に限らず、テレビや新聞などで、日本国内だけでなく、自費で外国に赴き、様々な分野で同じような活動している方々の記録映像も今までたくさん見てきた。

そういう中で、私がずっと疑問に感じ、何とかならないものか・・・と思ってきたことを聞いて下さい。

 まず第一は、立派な報道番組を制作する会社(テレビ局・新聞社など)には敬意を表しなければならないのだが、この種の番組は観ている人々に感動を与えるものの、何せ単発で終わってしまい、その後が全くない。そして、報道はするけれども、その人の活動の継続的支援を行わない。ここが私の不満の一つだ。番組に取り上げられれば、その人の活動は多くの人の知るところとなり、活動もやり易くなるのだが、所詮視聴者である一般の人は、ある意味無責任だ。番組などを観て、自分が感動しても、手助けや支援をするわけではない。勿論その人の自己責任において、活動の輪を広げ、資金も募らなければならないことは解っているけれども、だからといって支援をしなくて良いことにはならないと思うのだ。

社会に対して絶大な影響力を持つ報道関係がこういう方の後押しすれば、どれほど大きな広がりになるか、そして必ず新しい多くの協力者を生むことが出来るはずだと思っている。それが社会を良くすることの大きな一歩だと、私は信じてやまない。

立派な活動や行為を報道するところまでがテレビ局や新聞社の仕事と思っているあいだは、なかなかこの世は良くならぬ。報道関係者がそのことに気づいていないとは思えないのだが、残念でならない。報道する者の立場なら、考え、工夫すれば支援の方法はいくらでも出てこように・・・と思うと、悔しい気持ちが湧いている。

 今回の「ハチの干潟」を観て、あらためて感じた事は、今この青年は定職に就かず、大学に行く事も迷っているような現状だそうだ。これだけの事をやり遂げた人物に対して、何かしらの金銭的な評価や学位の授与などが与えられない事は、寂しい社会だと思いませんか。(今までに、このように様々な分野で活躍し、報道された人に対して、評価が与えられた話を聞いたことがない。)


 第二は、議会や行政の発想の貧困さは何とかならんのか!ということだ。今の世の中がとても窮屈で住みづらいのは全て議会が物事を決定し、行政がそれに追随するからに他ならない。

議会や行政は口癖のように直ぐ「予算が・・・枠組みが・・・前例が無いから…」と口を揃えたように言うけれども、単年度遣いっきり予算でなければ出来ないことになっているにしろ、前例が無いからと言うのなら、行政の仕組みを変えれば済むことのはずなのに、議会はこれをしないので、議会とは一体何のためにあるのかさっぱり訳が分からない。

議会を構成する議員全ての質が悪いとは思わないが、日本に限らず、議会制の下では、全ての案は低きに流れて決定されてしまう傾向にあることは否定できない事実だ。

議会制制度そのものが悪いとは思ってないけれども、ここに大きな弱点があることを知って於かねばならないということだ。

故に立派と言われている議員連中が議会で決めた決議案を、名も無き一般の活動家数名に覆されてしまう。これは一体何だ!である。高額の議員報酬を受け取り、政策活動費まで貰っておきながら、この醜態をどう捉えれば良いというのか。

大きな目でもの見ず、ろくに調査もせず、予算が・・・前例が…と言い、この世の生命形態の仕組みに関わる連鎖関係すらろくに理解が出来ていない者が、様々な事柄を決定するからこんな事態がしょっちゅう起こる。

諫早湾の埋め立て然り、各地でのダム建設然りで、受験のための勉強のみやってきて、偉い先生や官僚になった輩の姿とはこんなにも小さい者だ。それは教育者の中にも見ることが出来るので、こんなに情けないことはない。

有名大学を卒業して立派で偉く(?)なった輩が指導する今の社会が何故良くならぬか不思議で適わんのだが、子供が大人になって行く過程の中で、学問だけを学んでいればそれで十分であると言う、薄っぺらい社会にした先人の罪は大きい。


人というのは、子供の時は毎日のように野山を駆け回り、沼や沢に入って沢山の昆虫や水生生物などを触り、殺し、捕まえて飼い、観察して、大人になって行かねばならないのだと、私は考えている。

その過程で人は犠牲にした昆虫などから、命の尊さについて学び(教えるのではない。学ぶのだ!)、自然の驚異や不思議さに対して感動を覚え、この世に生を受けた自分の役割を考えるようになる。

昔はこのような場所が至るところにあったから、団塊の世代と言われている連中は、その中で多くを学んで大人になった。しかし今はその場所は姿を消し、よほどの田舎にでも行かなければ無くなってしまった。

見た目が美しい街中では子供の教育は出来ても、子供に多くを学ばせることは出来ない。このような場所を子供に提供できなければ、出来ない社会が悪いと考えている。

 広島には平和公園と呼ばれる広い公園があるが、樹木が植えてあるだけで湿地帯や沼のような場所は作られていない。街中には、いつの頃からかマンションと呼ばれる共同住宅が建ち並び、そこで子育てをする人が多くなった今、子供に自然界の仕組みの多くを学ばせようとすれば、車などを使い数時間掛けてその場所に行かねばならない。

月に一度か二度の観察では、結果として旅行の一種になってしまい、「あ〜面白かった」で終わる。そういう場所へは、親が連れて行くのではなく、子供が毎日のように、自発的に自分の足で行くことが大事なのだ。

街中にこういった場所を作らねばならないことは、絶対であり教育の原点であるはずだ。詰め込み教育がいけないとか、ゆとり養育だの、いやこれは間違いだとか何だとか言う前に、海辺の干潟を残し、小川にいる小鮒やメダカ・ヤゴなどを、網ですくい、トンボや蝶や蝉を網で追い、夏休みには毎朝、カブト虫やクワガタ虫を捕まえに行くことができる場所を街中に提供することこそ本当の教育環境を整えることだと信じている。

 しかし団塊の世代はこういう環境の中で学び大人になったはずなのに、何故これを失わせてしまったか、何故こんな社会にしてしまったか?。以前から話しているように、団塊の世代は欧米の表面的な物質部分で目くらましに会い、薄っぺらいのだが、先に進んでいるように見えた文化を誤って受け入れてしまった事に他ならない。

最後に、「ハチの干潟」のDVD(録画)あります。ご希望の方にはお貸しします。こちら(jun@junsetukei.com)までご連絡下さい