Vol.01

 「ことば」

 今日より日本文化の素晴らしさをお伝えしたいと思いますが、さて、何から話し始めたら・・・と悩み考えてみましたが、やはり始めに“ことば”について語らなければ先に話を進めることが出来ないと思います。

 私は俗に言われている団塊の世代の一員です。中学生になると、英語が教科に加えられました。まだ母国の日本語が満足に話せず、理解も出来ていない未熟者に外国の言葉を教えられた。日常生活で必要な訳ではないから、基本的に知識(教養?)としての勉学であった。戦争に負け圧倒的な物質の豊かさに魅せられて、アメリカに憧れを抱いた時期もあった。高校生の頃だったか、映画の中で自動車から電話をかけている映像を見たときは本当に驚いた。日本ではまだ一家に一台の電話はなく、急ぎの時は電報が主役の時代である。その上アメリカ製のアイスクリームやチョコレートはとても美味しかった。日本のものとどうしてこんなにも味が違うんだろう・・・と。

 洋酒ならジョニ黒(ジョニーウォーカー黒ラベル)や洋モク(外国煙草のこと)などが手に入れば、それはそれは有難く(なかなか有り得なかった)、裾分けを頂戴したものである。文化人と言われていた人達もこんな事を言っていた。「アメリカ人は人と話をする時は、身振りを加えてとても表現豊かだ。日本人はそういう表現が出来ないので、もっと学ばなければならない」と。今から思えば恥かしい話だが、当時は私も本当にそうだと感じていた。

GEの巨大な3ドア冷蔵庫に、腹に響くような音を立てて走るフォード車のムスタング・マッハ1、ドラム式の全自動洗濯機など今の日本では当たり前のような製品だが、欧米には数十年前からあったのだ。その物の“すごさ”に大人も子供も“とりこ”になり、欧米指向へ進み、大きな錯覚に陥ったまま今日まで来てしまった。

この指向は社会の至る所に枝を張っていて、企業経営者や医師、弁護士など社会的名声を得ている多くの人が入会しているロータリークラブやライオンズクラブにもその一端を見ることが出来る。言論の自由、表現の自由、報道の自由などと呼ばれて好き勝手な事をほざき、低俗で興味本位の報道をやっているマスコミの輩達、そして社会人予備軍の学生達の想いは待遇の良い会社へ就職したい・・・と思うのは自由(自分勝手)であるが、己の能力と釣り合っているのか?

 一時三高と言われた時もあった。高学歴、高収入、高身長が結婚相手の理想であるというものだ。思うのは自由(自分勝手)だが、自分の能力、人柄、容姿と釣り合うのか?報道者達と同じ事で自由と自分勝手のはき違いである。なぜこんな社会になったのかと言えば、唯物志向の欧米の真似をした結果である。日本文化と良き生活習慣を捨ててしまったからである。本当の事をお話しすれば、私がそれに気付いたのは私の仕事に関係する。

 二十代半ば、設計事務所に勤務している頃のこと。良い建物と、そうでない建物の区別は自分の中で出来るようにはなっていたが、その境界が見えない。良いものとそうでないものが認識できるのだから、必ず境界線があるはずだ・・・と思い随分多くの建物を見学したし、作品集を買い求めてみた。国内外を問わず有名建築家の本も読んだ。良いと感じる建物の図面を実際に写し描いてみたりもしたが、描いてみると別に何ら特別な内容があったわけではない(自分でも描ける内容のものである)。図面そのものに何かがあるのではなかった。

 本当に行き詰ってしまって、数年が経っただろうか、建築家 菊竹清訓氏の著書「建築のこころ」の本に出会った。この本の中に「か・かた・かたち」という表現があり、この平仮名の意味に大きな意義を感じ、それが突破口となり、直ぐに長年の頭の中にあった霧がす〜っと一瞬のうちに晴れた。彼の本より私が見つけた答えは「ことば」であった。それ以来建物の設計を通じ、歴史から多くを学ばせて貰い、やっとその大切さを皆様にお伝えできる所まで来たように思えます。

 私の日本文化論です。今日は“ことば”

 “つむじ”“うなじ”“びん”“ぼんのくび”“えりあし”“ひたい”“こめかみ”“目じり”“みけん”“人中”“みぞおち”“ふともも”“ふくらはぎ”“かかと”“つちふまず”など日常に使う身体の部分を表す言葉(名詞)を挙げてみました。この言葉の内で英語にも言葉(名詞)としてあるものと、そうでないものの区別がつきますか?

 実は言葉としてあるものが“うなじ”“ひたい”“こめかみ”“みけん”“ふともも”“ふくらはぎ”“かかと”“つちふまず”の8つです。言葉として全く存在しないものが“びん”“えりあし”“人中”の三つ、そして残りの4つは言葉を連ねた説明文となるので、ある意味言葉としては存在していないものに加えても良いと思う。例えば“つむじ”は「髪で渦を巻いている」“目じり”は「目の端」“みぞおち”は「恐怖を感じる部分」と説明文であり、“かかと”と「ヒール」“こめかみ”と「テンプル」のように名詞として認識できるものとは明らかに異なるものだ。

この内容は辞典で調べたものだが、前段で断ったように、これらの言葉は日本では日常的に使われるものであり、専門用語は入ってないから、たまたま調べた辞典が程度の低いものだとは思えない。十五挙げた言葉のうち、名詞として英語にある言葉は8つであり、3つは言葉として無く、残りの4つは説明文としてのものなので、その場所を身振り手振りを加えて相手に伝えなければならなくなる。

 若い頃、勉強不足の為、この身振り手振りを“表現力豊か”と思い込まされていた・・・恥かしい限りである。当時の馬鹿な報道者を含む知識人に対して憤りを感じている。欧米人は日本人に対し「能面のような顔をして話し、曖昧な返答をする」と言うが、顔の表情を変えなくとも豊富な言葉を使い、一々表情を変えたり、身振り手振りを加えなくとも意思の疎通が可能な高度な文化を持っているから出来ることで、曖昧な返答とは相手の立場を思いやる優しさと配慮の顕れであり、自己主張の塊である略奪民族の低次元文化に卑下されてはたまらない。

 日本のことばの言語数は「あいうえお」で48を持ち、欧米のABC・・・はたったの26である。ことばを構成する元素が半分しかないのである。皆さん御存知だろうか、言葉数が少ない生物ほど下等動物である事を・・・。私達は虫の声(又は虫の音)と言うように虫の鳴く声、犬・牛・馬等の鳴き声、鳥のさえずりなど全て言語である。とは言っても人間にはその意味は理解できないが、同種同族間で歴とした意思疎通の言語である。知能が発達し、文化意識の高い動物ほど言語は多い。象やサルなどは相当数の言語を持つことが確認されている。人類に於いて、地球上で一番言語の多い民族は日本人なのだ。これでお解かり頂けただろうか。

 欧米人は虫の音は唯の雑音として聞こえ、日本人には心安らぐ音(ね)として聞こえる。先程述べた身体を表す言葉であれだけの差がある。人間の生活の中を考えると、どれほどの差になるのか想像すらつかない程だ。月の満ち欠けの30日間の全ての月の形に名前が付けられている日本と、新月、満月、三日月(上弦と下弦)と十六夜程度しかない欧米。“すごい”“ものすごい”“兎に角すごい”“とてつもなくすごい”の形容詞、米国では「ベリー」をいくつ重ねるかでその凄さを表現する。必然的に大きな動作も伴わなければ相手にどれだけ凄いかが伝わらない。まるで日本では幼児の言語である。

こんな国が凄い国なんて口が裂けても言えない。その上、日本には漢字、平仮名、カタカナの3種をも使いこなし、漢字は象形文字、それを崩して平仮名、それぞれに意味を持つ。欧米の記号とは訳が違う。漢字は中国からの輸入品であるが、日本に輸入されてからは独自の進化を遂げて使いやすく改良されている。漢字を含む文章を読んでいると情景とその意味が心に染み渡るように伝わってくる。それは漢字の持つ意味が更に心に訴えてくるからである。ABCは記号だから何も心に訴えかけるものが無い。これは生活の様式・道具・習慣へと繋がってゆくのである。

 次回もお楽しみに。

これ故に、私が今までこのWEB日記に横文字を殆ど使用していないことに気づいておられた方いらっしゃるでしょうか?

 余談だが、下等生物の判断基準がもう一つありましたのでお伝えしておこうと思います。それは脚の数です。足の数が多いほど下等生物です。最悪の百足、ゲジゲジ、ヒトデ、雲丹から昆虫の類、四つ足、鳥、人間となります。特に蛸や蟹には虫の字を伴い、烏賊には足が10本あっても虫を伴わない。これはきっと鳥の仲間なのでしょう。又、蛇や蛙は昆虫ではないのに虫偏が付いています。とても下等な部類ではないでしょうか。これらに、なぜ虫偏をつけているのか、その原点を探すと面白いと思います。皆さんも色々と考えて探してみて下さい。

 私は学者ではないので私の勝手な思いで書いています。不勉強や無知の部分がありましたらご指摘下さい。改めます。