Vol.02

 「衣」

 前回のことばに続くものとして、人の生活の三大要素 衣・食・住のうち、衣を主題に今回は書いてみたいと思いますが、その前に“ことば”の補足を少しさせてください。

 昔からことばが乱れると国が乱れると言われてきたが、今が正にその時と思える。最近の言葉の乱れようは目に余る。いや、耳に余ると言うべきだろう。北海道の方言より端を発したコンビニ用語“○○になります。”“○○からお預かりします”“○○でよろしかったですか。”と聞く度に、頭が痛くなり、顔を顰めてしまう。そして、“全然○○ですよ”“なにげに○○”“○○みたいな”と芸能人がよく使っているが、何を勘違いしてか、自分も芸能人にでもなったつもりなのか、民放のアナウンサーが同じ様に話していることがある。何とも言い様が無く、情けないが、流石にNHKは言わない。

 大学生がよくコンビ二用語を使うので、これを嗜めたら「え、これ敬語じゃないんですか?。」だった。小学校や中学校の国語の時間で一体何を教えていたんだろう。知識不足の子供達がコンビニに買い物に行きコンビニ用語を聞き、敬語や丁寧語と勘違いして育っている。家庭で親も同じように使っているのでは、日本も終りが近い。

ある時現場監理の帰りに高速道路の食堂に入った。随分と流行っているところで、沢山の客がいつも待っているところだ。自販機で食券を買い求め、店員に渡すと半券を返してくれ、料理が出来るのを待つのだが、そこの料理が出来上がった案内は女性の声で次の様なものだった「○○ラーメンでお待ちの○○番の(半券の番号)お客様」と言うのである。始めて聞いた時、とても嫌な気分だったが、日本中がこんな状態だ、やれやれと思い、美味しい味も半減した。

しかし十日余り後に又同じ店を訪ねた時、子供達の姿が目に入った。流れてくる案内は同じ女性の声で、やはり「○○でお待ちのお客様」であった。だが、途中男性の案内に変った時「○○をお待ちのお客様」とちゃんと案内をしている。これはいけない。正さねば子供達も聞いている!そう思い、意見箱の有無を聞くと「設置している」と言うので、これらの事をしたため、もちろん住所・氏名・電話番号を記入して投函した。

数ヵ月後、同じ店を訪ね案内を聞いていたら「○○をお待ちのお客様」と案内がされていたので、ここの責任者は意見を取上げてくれたのであろうと感じた。しかし同じ職場で働く仲間で男はちゃんと案内し、女は不思議な日本語を使って案内をしている。お互いに注意をしたり、疑問に思うことはないのだろうか。又、直接の現場責任者は何をしていたのだろうか。料理の事だけ気を配っていれば他の事はどうでも良いのだろうか?自分さえ責めを負わねば他は知らないという今の日本社会の縮図を見る思いがした。

アジアやアフリカの多くは、母国語と英語の二つを使いこなす。しかし、それは英語が話せなくては仕事に就けないという必要悪(と思っている)からであり、決してその言葉が優れているからではない。全て植民地時代の名残りと経済を部分的であるが支配されているからだ。それに比べれば日本は幸せである。英語が話せなくても職にあぶれる事はないし、特殊な業種を除き英語が話せるからといって優遇される訳でもない。戦争にこそ負けたが、アジア・アフリカの諸国が今独立しているのは、日本が始めた戦争のお陰である。そうでなければ、まだ今もアフリカ・アジアは欧米の植民地であろう。それだけ日本の文化は優れている。日本の国民性は優れている。いや、“優れていた”と言うことであろう。

さて、本題の「衣」についてである。

着物と服の違いから始めましょう。今の若い人は見たことも無いことだろうが、私達が子供の頃は着物の「洗い張り」をした光景をよく目にしたものだ。着物は糸を抜けば一枚の反物の姿に戻る。実に優れた衣類の作り方である。まるで手品でも見ているようだ。汚れたり、しわが出来たりすれば「洗い張り」を行うと、新品同様に生まれ変わるので、何代にも渡って受け継がれて来ている。その上、着ている本人の体型が変わり、太ろうが痩せようが、全く着物には障らない。背の高さの違う人が着ようが一向に構わない。補正をしたりする必要が全く無い。これほど優れた衣類を持つのは日本だけであろう。大和撫子にぴったりの衣類ではないか。“可憐”“しとやか”“優雅”“あでやか”“しおらしさ”など着物には本当に良く似合う言葉である。

 今の若い女子共は大股で闊歩し、中には歩行喫煙、歩き食い、そして下半身が穴の開いたデニムのズボンときては、まるでバカ丸出し、いや、ケツ丸出しのただの下品な牝としか思えない。その上、手足の爪はてんとう虫かカミキリ虫、女郎蜘蛛かと見間違う様な色と模様が付いていては正直ぞっとする。

余談が過ぎました。

洋服は糸を抜けば何枚もの布地に分かれてしまうだけで、糸を抜く事は捨てる事に等しい。大きく太ったり、痩せたりと体型が変わればもう着ることも出来ないし、、背の高さも変わればこれも着れない。自分だけにとっては、その時の都合は良いが、体系の変化に追従できず、他人にとっても衣類にとっても許容力(使用可能幅、限界)に乏しい。まるで言語と同じであり、自己中心的志向と集団型共存思考と同一の結果の産物と考えている。この世の形あるものは全て「想い」が→「ことば」として発せられ→「かたち」になる。衣類と言えどもこれは変わらない。

「想い」とは、血の流れ(伝統的国民性)や生活習慣、気候風土、信仰などから自然発生的に湧き出すもので、本質・本性の部分と言って良いだろう。動き易いという利点が服にはあるが、そもそも女子は男に比べ動き易いような体型に創られていない。大きく激しい動きをする動作には不向きなように創られている。ダーウィンの進化論に私は少し疑問を持っているが、遺伝子は間違いなく次の様に後の世代へと受け継いできている。男に比べ骨格の作りは細く、筋肉は弱いが脂肪は多い。思考、学力、手先の器用さなど全てに於いて素質として男に劣る。

 今日は「衣」の話なのでこの事に関しては「男と女」の項に譲るとして、近年良く耳にするエコという言葉、はっきりとした意味は知らないが自然保護、環境保全といった意味合いと考えている、着物は正にエコそのものではないか。日本では1000年以上前から国中でやっていた。バカな欧米が自分達の非を少し認め、自分達こそがその主導者だと錯覚しているバカ丸出し民族だ。日本人よ、何を欧米に迎合する必要があるのか。日本文化は奴等よりよほど素晴らしかったではないか、戦争に負けるまでは・・・・・。

 私はある時を機にネクタイを全て捨てた。そして締めなくなった。捨てたと言っても元会社に勤めに来ていたパートの女性にあげたのだが・・・。(ちゃんとクリーニングに出した後です)50本に近い数十本あったと思う。未使用のものも7〜8本はあった。金額にすれば百数十万円はあっただろう。パートの女性が家に持って帰り御主人に見せたところ「このネクタイ全部俺の背広より高い」と言っていたと聞いた。使用済みのものが多くて少し気が引けたが、喜んで使って頂けて何よりだった。

というのも、ネクタイの歴史を調べた時、はっきりとしたものは無く、様々な説があるようだが、どうやら牛追いの牧童の汗が身体に回らないように首に巻いていたハンカチに原点があると聞く。その時、なんだ日本の野良作業の時に首に巻く手ぬぐいと変わらないではないか・・・。何かとても大きな謂れや歴史があるものだと勝手に思い込んでいた自分が恥かしく、不勉強を恥じた。その戒めにネクタイを捨てた。それ以降、冠婚葬祭の時も私はネクタイをしない。

 非常識と思われれば仕方が無い、それを受け入れなければならない。しかし、ネクタイが正装とはいつ誰がどういった理由で決めたか、私を非常識と言う人には答えられない筈だ。まあ、皆がそうしているとか、そういうものだ、などの理由であろう。なら、私は同席する他の人が嫌悪感を感じないネクタイ無しの私の正装を貫かせてもらおう。

そもそもこの世で生きている生物が首に縄(ネクタイの原点?)をつけているのは、牛、馬、犬などの家畜である。欧米人達は前世の四つ足の時が忘れられず、そのまま血の流れにあるのであろう。首に縄を付けている方が気持ちが安らぐのではなかろうか。生きた人間が首に縄を巻く時は、歴史的に見て絞首刑か首吊りだ。私もその時が来るかも・・・と思い友人が持っていた新品のネクタイを一本だけ数年前に貰って置いてある。今日使う事になるのか、明日使う事になるのか、私にもその日は分からない。

よく内閣総理大臣の任命式で天皇が任命状(正式な名称は不勉強で・・・)を授与する映像が流れたり、公式行事などの写真を見ると日本国内では男全員が燕尾服である。日本人なら本来は、羽織袴でなくてはならないのでは・・・。四つ足民族が憧れる、一段階格の高い二本足鳥類のツバメの姿を真似しなくとも、元々日本人の本性は格が高い。

 次回は「衣」の部類に入る「履き物」にします。