Vol.10

「住い 〜その4の続き〜」

 「土間」の話が大学の講義の如く道草を食っちまった。いつもこんな状態の講義になってしまい、学生には迷惑を掛けてしまったのだが、伝えたい事が多くあり過ぎて。私にとっては二コマ(180分)は短すぎたが、学生達にとってはとても退屈で長く感じられていたのではないかと思ったりもしていた。

さて、話を元に戻すとしましょう。

 家の中にあって、土足で使用する「土間」は日本人にとってはある意味とても便利で都合の良い「曖昧な空間」であることは皆様にもご理解頂ける事と思います。この「曖昧な空間」は実を言うと日本家屋には沢山あるのです。その一つは「縁側」です。縁側の外部に面する建具を全て開け放てば、そこは仕切られた空間ではなく、外部の庭や自然と一体化になった・・・とまでは言えなくとも、外と繋がった空間に感じられる。

 履物を脱いで使用する縁側は、家の中であるという事は頭が認識しているのだが、履物を履いて歩いている外と、壁や建具を無くして繋がってしまうと、ここも外のような内のような、ちょっと不思議な感覚になり、とても居心地が良い、ある意味「曖昧な空間」なのだ。又、縁側の室内側建具(襖か障子)を開け放てば、その室は縁側を介して外と繋がってしまう。この室はいくらなんでも外と一体化とは言い難いが、室にいて十分に外の庭や自然を感じることは出来る。一般の窓とははっきりと異なる感じ方であり、欧米のバルコニーとは全く異質なものだ。バルコニーは日本では「ぬれ縁」に近いと考える。

 室内であっても、室外的な使用を可能にする「土間」、室内にある「縁側」も建具をうまく使い、室外と繋がり、又その奥の室へと。それを拡散してゆく。四季や生活の形態の変化に合わせながら、住居の中を外にしたり、外を中に取り込んだり、小さく使用している室の襖や障子を取り去り、突然大きい室にして使用したりと、実に見事な柔軟性と合理性を持った住居ではないだろうか。正に日本の家は風呂敷であり、着物なのだ。この柔軟性と合理性こそが、日本文化の原点というべきもので、曖昧さはとても居心地がいいのだ。こんなすごい文化を生み出した日本人が欧米から非難されてはかなわない。

そういう意味もあり、人とは生き物であるから自然の一部である。それ故に他の自然と一体化したいとの願望があると私は確信している。広い野原や春のレンゲ畑に寝そべってみたり、美しい湖水に身を浸したい願望に駆られたり、海の中に潜り、魚になったような気分を味わったり、と子供心の記憶に必ずあるだろうし、実際にやってみた人も多いと思っている。出来る事なら雲の上にも乗ってみたい・・・が。

 大人になると余計な知識や分別が邪魔して出来なくなり、住いの中にそれを、その想いを取り込もうと考えるようになる。その上、住いを造る材料も出来る限り自然の材料を使用したりと、木・紙・土・石・植物などを用いてきた。これが千年以上造り続けられた日本の住いの原点であるし、四季をいかに快適に過ごせるか、自然と共に生活出来るかが家造りの考えの中心であったと言う事である。

 皆さんは物にも温度があることは知っておられると思うが、生命体には必ず温度がある。生命とは、熱であると言っても過言ではないと思っているが、木・植物など生命を失って建築材料となってもある程度の温度を感じる。元々生命体ではない石や金属には温度を感じることは無いが、紙や織物などは元が生命体であるが故に、(科学的には熱伝導率に関する事でもあるのだが)やはり温度を感じてしまうのである。触ってみればすぐに解る事で、真冬の外部に置いてある木材や本(紙類)、敷物、畳などは、触れてもそれほど冷たく感じる事はないが、石や金属はそうはゆかない。ほぼ空気中の温度と同じ温度になる為、冷たくて長く触っている事は出来ない。

 人は経験(体験)上、この事を知っているので、実は触らなくとも目で温度をしっかりと捉えているのだ。私はそれを「視覚温度」と勝手に呼んでいるのだが、私達は生活をする上で目に入る全てのものを温度としても捕らえているし、実は重さについても同じことを感じている(視覚重量)のだ。それ故に暖かくて優しい感じを強調したければ、自然材料の木材や紙、布、植物を多く使用し、色彩は暖色を基調に寒色や無彩色の対比を上手く用い、刺激的な部分を設けて優しさや暖かさを強調する。

 厳しさや緊張感、安定感(重量感)を強調するなら、無機質の鉄などの金属類やコンクリートを多用し、部分的に有機質の柔らかいものを使用して対比させれば、その効果は一層高められる。

 昔と違い建築材料が多様化している今、その材料の選択に失敗すればとんでもないものが生まれてしまう。その恐ろしさを知っている建築業者(建設会社や住宅販売会社)はこのことに関して絶対に冒険をしない。仕上材料は必ず建築主に選ばせるし、無難なものを提示する。選んだのは建築主だから、どのようなものになろうと責任は問われない。ある意味言葉巧みに、上手い責任逃れをやっているのだ。

しかし、これに挑戦しているのが建築家である。建物全体の形、外部内部の空間、建築材料、色彩など全てに対して経験と養ってきた感性を持って建物創りに挑み、その結果の責任を負う自信が無ければとても出来ることではない。建築の設計とは歴史であり、文化であり、伝統であり、建築主の今と将来を見越して生活や社会の変化に対応できる可能性を含んだ想いである。

 国土交通省の定める建築設計資格試験(一級建築士試験)には、これらの事は微塵も含まれていないし、大学でも教えるところは少ない。日本の文化衰退に、国交省や文部科学省が一役買っている。誰かが言わなくてはならないし、改革もしなければならないのだが、知らなくても、改革など行わなくても、生活に困ることの無い今の日本で、その上「恥」も知らない「器量」も「品格」も失ってしまい、欧米型の自分勝手な利己主義が蔓延っていては、望むべくも無いものなのだろう。

 己の首を真綿で絞めているような状態なのだが「厳しさ」が「良さ」だと理解できない国民では、いずれ先は詰まる。