Vol.14

「〜かすれ その2〜」

 前回は「かすれ」についてでしたが、文が長くなりすぎるので「かすれ」のなかで最も大事なものを、まだお伝えしていません。今日はその補足をさせてもらいます。

それは何かというと「書」なのです。実を言うと「書」は単独の主題で取り上げたいと思っていたのですが、「かすれ」が絡んでくるので続編にしました。

 「書」(しょ)は欧米には無いと確信しています。以前にお伝えしたように、私はABC・・・は単なる記号の一種だと思っていますし、韓国のハングル文字も同じものだと考えています。この記号を美しく綺麗に書いたものをみても、どのように崩して書いたものをみても、たとえ芸術的に書いたものだと言われるものを見ようが、ガード下の「らくがき」のように思えてしまうのです。

それはなぜかと言えば、やはり意味を持たない「文字(記号)」であるからだと思っています。それに比べ漢字は象形文字で、その文字一つ一つにそれなりの意味を持っている(漢字の生い立ちを記した本があり、それを見ていると、「なるほど、それでこの字が出来たか」と、実に興味深い)。そして、平仮名・カタカナは、難しく扱いにくい漢字を崩して容易に扱えるようにと(昔は正式文書や格式を重んじる文書は漢文が用いられていた)、日本で創られた文字です。

平仮名は平安朝の頃より使われていて歴史も古く、漢字と併せて使用している日本の文章は本当に味がある。私たちは日常の生活で様々な文章に触れているけれども、自然と漢字の部分はその意味を想い、平仮名の部分は優しさを感じ、そしてカタカナは外国の文化等を感じながら全体を捉えていることにお気付きだろうか。

単なる情報の伝達だけでは終わらず、深い意味や想い遣りを感じさせる文字を組み合わせた文章は本当に素晴らしいものがあります。最近は使われなくなった「変体かな」を使った文章などには感激することもあります。
例えば「・・・でございます」は「・・・でござい満寿」又は「・・・でございました」は「・・・でございま志多」と書いたりするもので、・・・の下りが喜び事であればそれに続いて「満寿」と表現し、決意の表明のようなことであれば「志多」と書けば、その想いは何倍にも増して相手に伝わる。

このように文字を見事に使い分けて日常生活をしているのは日本だけで、地球広し、世界の国多しと言えども他国ではありません。いや、出来ません。それは語源の数の違いと、三種の文字を見事に使いこなすことの他ならないのですが、これが日常当たり前すぎて、私たちはそのすごさに気付いてないだけだと思うのです。

少し前に社会問題になった駅前留学など“何をか言わんや”である。私は外国相手の仕事に就くか、外国の文化や歴史を研究するのでなければ、敢えて外国語など学ぶ必要はないと考えている。なぜなら、私たちの日常生活の中では義務教育で教わった範囲で十分にその役割を果たしていると思っているからです。
言葉の乱れを耳にする度、それよりもっと日本語を正しく使うことを教える学校を作ることの方がよほど大事ではないかと思っているくらいです。最近、日本の義務教育では国語をどのように教えているのだろうか?と思いつつも、官僚が作成した教委指針の中を期待する方が馬鹿か、と思わざるを得ない社会は有難くない。

前置きはこのくらいにして、本題に入ります。

文字の「かすれ」を最も多く出せる筆記用具は「筆」と「鉛筆」ですが、そのうちで最も「かすれ」上手く表現できるものは「毛筆」です。それ以外の「ペン」の類や「絵の具筆」の類などでは「かすれ」た部分を芸術的に昇華した表現はできません。ペンの類などではインク切れの時に「かすれ」が出てしまい、みっともないので重ね書きをしたりします。絵の具筆の類では、色が乗らない部分が出来るので、やはり重ね塗りをします。鉛筆は芯の堅いものでは「かすれ」は出ませんが、柔らかいものを使うと「かすれ」を表現できます。

ここで少し整理をしておかなければいけないと思います。それは「書」と「かすれ」はそもそも異質なものなのですが、墨と毛筆の特性を生かして芸術的に昇華させたものだと言うことです。

 私は書道家ではないので詳しいことは知らないけれども、まず「書」があるのは東洋だけだと思っています(中国・韓国・日本)。「書」とは一般的に文字(漢字や仮名を用いたもの。中国や韓国では漢字のみ)を墨を用いて毛筆で書いたもので、ペンや絵の具で書いた文字を「書」とは言いません。ABCを墨を用いて毛筆で書いたものが、あるのか無いのか判りませんが、仮にあったとしても、それを「書」とは言わないと思います。書道家が「書」として書く文字を選ぶにしてもABCは恐らく選択肢に入らないと思います。それはなぜかと言えば、やはり意味を持たない記号だと認識しているからでないかと思うのです。

 話が少し横道に逸れますが、欧米には「Penman」と言う書道家がいるようです。しかし「Penman」は清書(文字や文章を綺麗に書く)をする人のことをいうのだろうと想像しています。なぜなら欧米の美術館でABCの文字を書いた「書」を見たことがないからです。

東洋の書道家は「Penman」とは全く違います。古の賢人の残した言葉や詩又は熟語、それに意味深い一文字の漢字を墨一色で毛筆を使い、様々な書体を用いて書き上げます。私たちはそれを掛け軸にしたり額装して室内に飾っています。墨と毛筆を使って芸術的に昇華させた文字・文章を見たとき、その中に私たちは美しさ以上のものを感じるからだと思います。それは前回お話した「無常観や死生観」です。

だから英和辞書にある「Penman」は「清書家」とするべきで、「書道家」とは別次元のものとして扱ってもらいたいものですが、東洋の「書道家」に同じくする職業が欧米にないのでは仕方のない訳(やく)であろうか・・・。

 当社のホームページの作品の中にある住宅建築の「玖珂の家」の5番目に出てくる玄関の写真に掛けてある書は「空海」と書いてあるものです。これは私の義弟で書道家の村山 臥龍(東京在住)の作品で、瀬戸内海の美しい自然に囲まれた住まいに似合うようにと「空」と「海」を書いてくれました。

ここに「SKY SEA」と書いた額を想像してみた下さい、似合うと思えますか。もう一つ事務所建築の「吉島の事務所と工場」の4番目と5番目の写真に出てくる立体書を見てください。これは私が(株)サンポールの山根社長さん(故人)に提案お願いして、書をアルミの鋳物で作成したものですが、「日輪」と書いてあります。
サンポールの社名にちなんで村山 臥龍氏が太陽である「日輪」を篆書の金文(てんしょ・きんぶん)で表現したもので、まさしく「日」であり「輪」を感じる。ここに「SUN」の立体書を想像すると気持ちが悪くなるのは私だけだろうか。

 本筋に戻ります。墨と毛筆で作り出す「かすれ」は少しずつ墨がうすくなり、「かすれ」て墨が無くなってゆくところにも様々な想いを生じさせるもので、墨一色の濃淡で文字を使い「無常観や死生観」を表現する「書」は水墨画をも超える人間が昇華させた文化だと誇りに思っています。

ものを作ったり考えたりする前に、濃い鉛筆で描く下書きの「かすれ」(絵画ではデッサンと言い、建築の下書き構想ではエスキースと言う)は敢えてはっきりとしたものを初めから表現せずに、ぼんやりとした中に想いのものを見つけ出そうとしたり、想い以上のものを見つけようとする手法なのです。 

そうなのです「かすれ」とは、はっきりしない部分の良さを上手く使って生活の中に取り込んだ高度な文化です。だからといって、この世の全ての事が「かすれ」てしまっては困りますが、「かすれ」の良さを見つけ出した東洋の文化は、やはりすごいと感心する。

 後の課題として考えているパソコンなのですが、実を言うと現在私たちの仕事は書類作成から設計図書に至るまで、ほとんどパソコンで行っています。私も五十の手習いで五、六年前にキャド(パソコンを使って建築図面を描く)を学び、現在はこのキャドを使って仕事をしています。業務の処理能力や早さは当社の才媛・鵜飼慎子の半分程度で、とても情けない現状ですが、何とか使いこなしているといったところです。今の社会におけるパソコンの意義は別の機会に述べるとして、パソコンで描いた設計図はプリンターで打ち出して図書にします。

私が描こうが学校を卒業したばかりの新入社員が描こうが全く同じ線や文字が打ち出されてきます。これはある意味有難いこともあるのです。パソコンで図面を描く以前は手書きでやっていました。製図板に向かい鉛筆(0.5oのシャープペン)でもって数種類の線の太さや文字を巧みに表現して描き上げたものです。そんな時代では新入社員の描いた図面など、とても使い物にはならなくて(余りにも見苦しいため建築主に見せられない)何とか図面が画けるようになるまで、給与を払いながら随分とタダ飯を食わせながら養い育てたものです。

しかし今はパソコンが描くのでその心配は不要になりましたが、反面、図面の作成途中では実物大の図面が画面の中に出来ないので、望遠鏡と顕微鏡の世界を行ったり来たりで、マウスを使う操作の繰り返しをするため、想像力が湧かず、その上、間違いがとても多くなってしまいました。まあその代わり、あらゆる部分の複写が出来たり、字の下手な私でも綺麗な文字の図面が作成できる良さはあります。しかし一番肝心な想像力を奪われるのは嬉しくありません。何と言っても設計図書の価値はその図面の美しさにある訳ではなく、考え抜かれた内容にあるのですから。

恐らく作家や書家の方も同じような想いをしておられると思います。
鉛筆書きの下書き原稿を読み返している内に、もっと良いものを考え出したり、上手い表見を見つけたりするものだと思っているし、原稿の中の鉛筆にある「かすれ」た部分を見たり読んだりしているうちに、不思議と想像力が自ずと湧いてくるものではなかろうかと思っている。

建築の設計途中も同じ様なことがあるので、このように想像してしまいました。当時手書きで描き上げた設計図面はアンモニアを触媒にする感光紙に焼き付けたものですが、できあがった図面には描いた人の線の勢いや走り、表現など、美しさや纏めかたの上手さに感激するようなものまでありました。鉛筆で描いた部分に「かすれ」がそのまま写し出され、それはとても「味」(あじ)のある図面でした。そしてその図面を見るとその設計者の想いや思考が文章のように読めて(線で合成した図面を言葉で読める世界があります)、人がものを創ろうとする意欲や情熱が伝わってきたものです。

描いてある線を見れば誰が描いたのか判るくらいのものでした。パソコン仕事になってこれがなくなったことはとても残念でなりませんし、この世界を後生に伝えることが出来なくなったことは、もっと残念なことです。全てがこのような状況下にある日本は、間違いなく社会の本質が貧弱で薄っぺらになってゆくと確信しています。

毎日のようにニュースで流れる嫌な事件や、またかと思う謝罪を聞かされている今の社会は、もう既になっているのでしょう。

欧米から伝わってきた文化(便利・合理的・経済最優先・生まれながらにして能力が違う男女なのに不可思議な平等など)が全てが良いとは思えません、上手く取り入れて使いこなさないと、日本の良さや人間にとって本来の良さは失われます。