Vol.03

 「〜その3〜」

 さてそれでは前回の続きです。

悪しき平等と自由〜その2〜において、日本では終戦後に女が「自由」を手にして、現在、世が乱れているとお伝えした。当時「戦後強くなったのは靴下と女だけだ」とよく言われたものだが、この言葉がまさしく現在の社会が乱れる前兆であったことを示している。

戦前までは女は弱く、戦後になって女が強くなったと言うけれども、戦争を境に女の筋肉や体力が急激に向上するわけもないので、体力の問題ではない。女がいくら体を鍛えてみたところで、力では男に敵うはずもない。男と女は産まれながらにして基本的に体の組織や構造が異なる生き物だ。

それ故に、この自然界において課せられた役割は全く違う。このことをよく理解していた東洋の文化・思想は女に対してとても注意深く教育していたということだ。このことについてはもう少し後に述べることにするとして、では日本において戦前まで女には自由がなかったのかというと、それは違う。

 今の若い人達には想像も出来ないだろうが、戦前から終戦直後の頃までは、日本の社会全体が個人を主体とした生活ではなく、何事も「家」を主体として考え捉えて生活していた。ここで言う「家」の延長線上には「親戚」「近隣」「地域社会」へと続いているような「家」である感覚で捉えて欲しい。(欧米では家族を含む個人が主体で「家」が主体となることはない)

その中では多少の窮屈さは誰もが感じていたはずで、別に女(嫁や娘)だけに自由がなかったということではない。まだ家長制度の名残もある状態で、「家」の中では、家長である主人と長男だけは少し特別の扱いを受けていたが、長男以外の子供の待遇や扱いは少し冷遇的であった。しかしその代わりに、余り厳しい躾けや口うるさいことは言われずに済んだものだ(但しいずれ「嫁」に行く「女」は別である)。

 当時は長男というだけで、随分甘やかされ育てられた人も多かったが、反面「家」のために“家業を継ぐのだから・・・”“長男だから・・・”などと言われ続け、学業の成績や素行、生活態度など相当の期待を課せられ、重圧感を感じていた事も事実だ。

又「嫁」と呼ばれる「女」に対して「家」のために粉骨砕身の献身を求めていたことを否定しない(ある意味皆が少し「窮屈」だった時代ということになるが「強制」された「窮屈」ではなかった)。朝は誰よりも早く起きて一家の朝食の支度をし、家族が出掛ければ後片付けに掃除洗濯、アイロンがけ、繕いものなどをして、それから義父母の昼食の用意と後片付け、そしてこれらが済めば次は夕食や入浴の準備である。

夕食が終われば、その後片付けをして寝間の準備をする。これら全てが終わって、やっと最後に入浴をするのだから、就寝は家族の誰よりも遅くなる。その上家業(農業・漁業・商売など)を持っている家では、家事をする中で空いた僅かな時間ですら手助けをすることが、ごく一般的な感覚として捉えられていた。

これが「嫁」の日常の生活の姿であるから、自分の時間など全く無かったような状態と言っても良い。

洗濯機は無い時代だから、洗濯板で洗濯をしていたし、真冬でも冷たい水で洗濯をするのが普通の感覚であった。掃除機も無いので、はたきで埃を取り、茶殻を畳に撒いて箒で掃き、廊下や縁側は雑巾掛で家中を掃除する(親子三代が同居している家だ、今の核家族が住んでいるような狭い家ではない)。その上、電気釜のようにスイッチ一つで飯が炊けるのではなく、竈に火を熾してから炊かなければならないし、煮炊き焼き物などは、ガスや電磁調理器があるわけではないので、七輪に火を熾してからだ。風呂は五右衛門風呂(関東地域は檜風呂)だから焚き口から薪を入れて焚く。

又、買った衣服はとても大事に使っていたので、傷んだら繕いをする。勿論このような生活下にあるのだから、一般の家庭では、家族全員(舅・姑・子供達)が役割分担をして「嫁」「母」を助けるために家事を手伝っていた。つまり「家」のため「家族」の世話をすることで忙しくて、自分自身の自由な時間が持てなかったということであり、精神的な自由が無いとか、抑圧されていたということではないと考えるべきだ。

戦後の「知識人と呼ばれた女達」は、これを「男尊女卑だ」、今まで「女は虐げられていた」と声高に叫んだのだが、明らかに「自由」のはき違えで、勘違いも甚だしいし、「男女」を問わず多少の「窮屈」を感じるからといって、また、自分の「思い通り」にならないからといって「自由」が束縛されていたわけではない。

時間的な自由がないことは確かに精神面を圧迫するが、これが精神的な自由を奪っている原因にはならない。この戦後の知識人と言われた「女達」が「レディーファースト」と同じように、欧米の誤った「自由」を自分勝手に解釈し、勘違いして取り込み、(問題をすり替えて)騒ぎ立てたに過ぎないことだと私は確信している。

戦前や終戦直後の「嫁(女)」は家事のことなら何でも出来たし、今のように便利な道具が無かったので、生活上の知恵や工夫を沢山身につけていた。それは「女」としてこの世に出された以上、先では「嫁」にゆく前提の下、娘の頃より家事の手伝いをさせられながら生活の基本を母親に教わり、その秘訣を授けて貰いながら「女」としての教育を受けていたということである。

だから当時の「嫁」は「女」としての「格」も随分と高く、「人」としても賞賛に値する位置にあったと思う。だから「主人」「子供」「舅・姑」に至るまで家族全員が「嫁」に「母」に感謝の気持ちを持っていた。だが、日本の男は往々にして「嫁」に対して「感謝」の気持ちを「言葉」にして伝えることは少ない。その理由は「男尊女卑」ではなく、人にもよるけれども、男という生き物はこういう事を口に出すのが「照れ臭い」生き物なのだ。

人によれば「恥ずかしくて」「少しみっともない」中には「女にそんなことは言えない」と思っている者もいるかもしれない、だから、よほどの何かが起きなければ「男」は「嫁」に対して「感謝の気持ち」を口にしない。この辺りのことは後の項で詳しく述べることにする(これらは多岐に渡って複雑に絡み合うので先送りをお許し下さい)。

しかし、このような状態であっても、当時「女」として「母」として「嫁」として「幸せ」を感じることはあったと思うので(もしそうでなければ、当時の「嫁」は全員が不幸であったということになるが、決してそうではないはずだ)、時間的な自由は無かったかもしれないが、「自由」そのものが無かったわけではないし、「女」が不幸であったわけでもない。

日本中がまだ貧しい時代、「嫁」を含め家族皆が「もう少しお金があれば・・・(きっと幸せを感じることができる)」との思いを強く感じながら生活して行く中、戦後の経済成長の下、徐々にこの家族達は欲しかった「お金」を手にし始めるのだが・・・。
           その過程と結果は続きにします。