Vol.08

 「〜その8〜」

 先日ある出来事が起こり、結果的には、“やれやれ!”と思ったことなのだが、その経緯をお話ししてみます。「悪しき自由と平等」を受け入れた、団塊の世代が主張する典型的な例が身近に起こりました。

これを、みなさんはどのように考えられるか?で、ご自分の欧米化思考の度合いが判断できると思います。

それは、弊社の設計監理で竣工し、15年が経過している建物のビル管理をしている会社の事務長さんが、困ったような顔つきで訪ねてきたことから始まった。

話を聞いてみると、何やら、そのビルの玄関ポーチ部分で年寄りが転び、怪我をしたということらしい。

怪我をしたのは当該ビルの4階で開業している医院に通院する高齢の女性で、幸いに怪我そのものは、打ち身程度で大事には至らなかったようなのだが・・・その身内の男性が苦情を言ってきたので、どのように対応した良いものか?の相談だった。

状況の説明を受けると、怪我をしたのは苦情を言ってきた男性の母親で80歳代中頃、苦情を言ってきた男性は60歳過ぎと思われ、市内で建設業を営んでいて、一級建築士の資格を持つのだという。

そしてその男性は次のように言ったというのだ。「儂は、建設業をしていて、一級建築士だ、そして、南区の○○に1500坪の土地を少し前に購入した」と自己紹介?のようなことを言い、続いて「段差がある部分の僅かに傾斜しているところで転び怪我をした。何故もっと長いスロープにしなかったか」と。

 問題になった、その部分の高低差は僅か8cmである。その部分には、車いすや荷物を運ぶ台車が通り易いようにと、斜めの部分を設けていたのだが、その部分が気に入らないらしい。

どうして、8cmの高低差を設け、斜めの部分を作ったか、の訳は、ハートビル法や、使い勝手、管理運営上の問題、動線、予想される事故の防止等を考慮した上で決めたことなのだが、その理由を全て記述すれば、膨大な記述になる上、設計図書や数十の想定図面を用いて説明しなければならないので、割愛させていただく事をお許し頂きたい。

訪ねてきた事務長さんには、そのことを詳しく説明して“なるほど”と納得して貰ったが、苦情を言ってきた男性の言い分を聞き入れ、長いスロープを設ければ、前述したように、別な部分で事故が起きる可能性が大きく、もしそこで事故を起こせば、設計ミスと言われても仕方がないようなこととなり、責められれば、私自身が反論できない状況になる。 

そうなれば、現在ではビル所有者も責任を追及される事態にもなる恐れがあるので(現在の裁判所が出す判例は、常識を外れていると思えるほど悪く、これも日本をダメにしている元凶の一つなので、近いうちに、これも必ずお伝えする)それ故に、高低差を設けたが、僅か8cmとしてある事情を重ねて説明した。

そして、私は次のように事務長さんに話した。「状況から見て、苦情を言ってくるのは、怪我をした側の言い分だから、それは仕方がないとしても、1500坪の土地を購入した話は今回の件と全く脈絡がないことなので、このようなことを平気で言ってくる人は、何かしら変なところがあると思った方が良い」と。

事務長さんは「まあ、本人(苦情を言ってきた)から直接話を聞いたのではないので、詳しく聞いてみてからまた相談にくる」と言い、帰って行った。どうやら苦情は他の誰かが聞いて、事務長さんに伝えられた内容のようだ。

 数日後、事務長さんが再度訪ねてきて、その後の経過を話してくれた。

転んで怪我(腰の打ち身程度)をしたのは、母親ではなくて、その母親の通院に付き添っていた嫁の方だったという。そして、その嫁は持病で腰が悪く、不自由な身体状況だったと聞かされ、呆れて言葉を失った。

身体が不自由な者に、身体が不自由な者が付き添ってどうする!乳児の子守を乳児がするような状況と何ら変わりはない。

これで何かが起こったと言うのであれば、身体が不自由な者の方にも“自分は大丈夫だ!”と過信があったのだろうし、何より、身体が不自由な者を介護として付き添わせた方が悪い。このような状況を考えれば、ある意味事故が起こる予測は誰でも(苦情を言ってきた本人でも)ついたはずだ。

それでも、自分には非がなく、8cmの高低差に斜めの部分を作っている方が悪いという言い分は、誰が考えても可笑しいし、どう考えても、言い掛かりに等しい。

一般道路を歩いても、10cm前後の高低差は至る所にあるし、斜めの部分も沢山ある。この者は、もし道路で同じ様な事故を起こしていたら、道路管理者(国・県・市町村)に同じく苦情を言ったのだろうか。

 自分の過失は一切認めず、全てを他人のせいにする風潮は、近年目に余るほど多くなってきている。人は生き物で、動物である。それ故に自分の身は自分が守らなくてはならないのだが、最近の裁判の判決文などを読んだら、そうではなく、いつも誰か?が守ってやらなくてはならないようだ。

そして、それが守れなかった者には罰が科せられる。本末転倒な社会に裁判所が率先して誘導している今は、まさしく欧米化の悪しき社会となってしまっている。

 事務長さんが話す中に「どうやら、この人は“クレーマー”らしい」の言葉を聞いたが、それも頷ける。

何せ、怪我をしたことと、自分が購入した1500坪の土地は何ら関係がないのに、こういうことを平気で言う人物は、往々にして何処か思考に欠陥がある人と思って差し支えない。

仮に、言い分として“俺は1500坪の土地を購入できるほどの者だ、別に金銭を要求しているのではない”との思いから出た言葉であったとしても、1500坪の土地購入の話は必要ない。

金銭的な要求をしなければ済むだけのことだ。それより、乳児の子守を乳児にさせるようなことしておいて、自分の非に気がつかない人物(60年も人生を切り抜けてきた)が情けない。

これが、「悪しき平等と自由」を「権利の横暴」にしてしまった日本人の姿である。

 その後、私は“クレーマー”の言葉が気になって、少し調べてみた。何故なら、この“クレーマー”の日本語訳は“何かにつけて、相手に苦情を言う者(金銭的要求をする場合もある)”となるのだと思っていたので、辞書を引いてみた。
広辞苑には“クレーマー”の意味は載っていなかったので、未だ未記載なのだろう(これほど今の社会で使われている言葉なのに・・・)。

しかし英和辞典には“claimer”と、はっきりとした人格(人物)表現の名詞があり、それらしき意味が載っていたので、欧米の社会には、この様な人物が間違いなく沢山いるという証である。

でも、日本語にはこの言葉は無い、以前“ことば”のところでお伝えしたように、英和辞典を見ても、日本語の訳は名詞ではなく説明文だ。と言うことは、古き良き日本にはこのような人物はいなかったということになる。

もしいたとするなら、必ず名詞の付いた表現が言葉として存在せねばならないはずだ。じゃあ、このような人物が全くいなかったのかと言うと、そうではないだろう、いたに違いないがごく少人数であったと思われ、それも、限られた職業で、この類の人達を、通常“やくざ者”と呼んでいたと思っている。一般の人はこのようなことはしなかったということだ。

しかし、“クレーマー”と“ヤクザ者”は意味が違う。一般的に“ヤクザ者”と呼ばれる者は、正業に就かず、ぶらぶらしている博打打ちであるが、何かにつけて一般人に言い掛かりをつけ、人を困らせて喜んだり、時には金銭目的でこのような行為をしていた。

正当な苦情であれば、それは別として、言い掛かりに等しい様なことは「恥」「徳」「則」「自負心」「分」などを身につけて、弁えていたため、一般の良識ある人には、到底出来るようなことではなかったっと思っている。

今は、“ヤクザ者”ではない、正業に就いている者が、心の中は“ヤクザ者”になり下ってしまっている。

 欧米化すると、このように人心が荒れ、言葉が乱れて、世は乱れる。 今日は話が少し別なことになってしまいましたが、このようなことが今の日本では日常茶飯事の如く起こっています。

誤って取り込んでしまった欧米(外来種)の文化を一日も早く駆除しなければならないと信じて止みません。これが出来なければ、良き日本固有(在来種)の心が絶滅します。

                                     本編の続きは後日