Vol.09

 「〜その9〜」

 前回は身近に起こった、団塊の世代のある人物についての事をお伝えしたが、団塊の世代が思春期を迎える頃の日本は経済成長の真っ只中であった。

年を追う毎に所得が上がり、何となく先行きが良い気がしていた団塊の世代の親達は、次々と家庭に家電製品を揃えてゆき、子供達の教育にも少しお金をかける余裕が生じてきた。

同時に「悪しき平等と自由」が日本中に蔓延ろうとしていた頃だ。団塊の世代は、自分が持っていた良き「枠」を徐々に外してゆき、「平等と自由」を自分勝手に解釈しながら成長していった状況は以前お伝えした。

 大正から昭和一桁生まれである団塊の世代の親は、思春期に悲惨な戦争を体験した記憶が消え去らないうちに、段々と経済的に豊かになっていったので、“子供達には自分と同じ目に遭わせたくない”の意識が働いた。

その想いは、自分を犠牲にしてでも子供達には、現在ほど十分ではないにしろ物を買い与え、教育にも情熱を注いだが、その時、背景には「悪しき自由と平等」が日本中に繁殖していた。子を想う親の気持ちを否定するものではないが、この相乗作用で大きな勘違いをしたのが、団塊の世代であることは、はっきりしている。

言うなれば、まず、団塊の世代の親が子育てに失敗した。そして団塊の世代は「平等と自由」を誤って取り込み、次の世代の子育てに失敗した。

その結果、団塊の世代の子供達は“ままごと家庭”を作ってしまい、最近よく話題になる“モンスター”や“クレーマー”に加え、様々な凶悪事件を起こす一般人をこの世に生みだしてしまったということだ。

この三世代が今の日本を構成しているのだから、良い社会になっているわけがない。

 何故このようなことになっていったのか?を、当時の状況を振り返りながら考察してみると、きっと何かが見えてくるはずである。

団塊の世代が大学生の頃は、流行のように学生運動にのめり込んでいった者が多く、高校の同窓である私の友人の何人かも学生運動をやっていたが、その者達は全て国立大学に在籍していた。 

若い人達は知らないだろうが、赤軍派のハイジャック事件や浅間山荘事件、広島宇品港での客船シージャック事件など、多くの事件を起こして社会を騒がせたが、最終的には国家権力に追い詰められ、仲間同士を殺し合う内紛などで、組織?のようなものは崩壊してゆき、その後運動は下火になり消滅していった。

彼らの行動の思想背景はマルクスレーニン主義に基づくもので、日本で革命を起こそうと本気になっていたのだが、国家権力相手に武器が鉄パイプと角材では敵うはずもなかろう。

最も、国民がその思想に賛同し、協力が得られれば可能であったのであろうが、日本は高度成長期であり、団塊の世代の親達は生活を豊かにするために必死で働いて、その手応えを感じていたころだ、もはや日々の糧に困っていたわけではないから、共産主義や社会主義に賛同などするわけがない。

私など当時はノンポリ学生(政治や学生運動に関心のない者)で女の尻ばかり追いかけていたから、純粋に国を想っていた?彼らのことを揶揄するような表現は気が引けるけれども、正直言って、国家権力相手に鉄パイプと角材では、蟻が象に挑むようなことと同じにしか思えなかった。

優秀な高校生で国立大学に行った彼等から「お前はノンポリだ」と非難されたものだが、大学生だった私など政治や社会の仕組みなど判るわけがなく、彼らが想うものと同じ多少の想いはあっても、成功するに確信できる手段が見つからなければ行動は起こせなかっただけだ。

例えて言うなら、銃がなくとも、千枚通し一本あれば象を殺すことは出来るのかも知れないが、その為には象の急所を知り、的確にその急所を突かねばならないが、失敗すれば逆襲されて、こちらが危うくなる。無知な学生の分際で政治や社会の急所など見つけられるわけがない。

それと、“必ず成功する確信がなければ、行動は起こしたくないし、途中で止めるのなら、始めからやらない方が良い”との打算にも近い想いが頭の中を支配していたからである。

と、つまらないことを書いてしまったが、何故このようなことに触れたかというと、実は欧米からだけではなく、共産国からも来た「悪しき自由と平等」がここに潜んでいたからなのだ。

 共産主義、社会主義は一見、机上の論理においては、とても良くできた仕組みに思えるのだが、私は現実を無視した機械相手の理論だと思っている。

この思想は「全ての人間は平等でなければならない」から始まっていると思っているのだが、このような馬鹿なことが人間の社会であり得るはずがないし、森羅万象の世界で「平等」など絶対にないと言っていい。

終戦後「自由と平等」が日本に入ってきたとき、国立大学の教授など、知識人と言われた者達がこぞって共産主義や社会主義に傾向していった事実を無視してはならない。

戦前、戦中に思想統制や赤狩りをやっていた時代への反発もあったのだろう、その気持ちが解からないわけではないが、よく検証せず、確かめもず、盲信的に「自由と平等」を取り入れたと同じように、知識人は「共産・社会主義」を取り込んでいったのだ。

この知識人達は、ある意味純粋で無知な学生の頭の中を「人は生まれながらにして全て平等であり、支配階級があってはならない」と洗脳したのだ。早い時期に洗脳されて大学を卒業した優秀な?学生達は官僚になったり、報道関係に就職し、少し遅い者達は学生運動に没頭した。

お陰様で、対外的には自由主義社会に見えている日本だけれども、税法を始めとして判るように、中身は間違いなく世界一の理想的社会主義国家である。

よく調査もせず、主義と謳い文句だけで踊らされ、北朝鮮を“この世の楽園”とまで広報して多くの人達を北朝鮮に送り込み、悲惨な目に遭わせた責任を未だに取ろうともせず、謝罪もしない、日本では一流と言われている新聞社。

その新聞社は、誘拐を率先して行ってきた国家を非難もせず、一流のままで居続けられる理由は到底理解が出来るものではないが、全てにおいて何をしても許される「自由と平等」が生んだ結果はこのような有様となる。

 ある意味共産主義や社会主義の理論は屁理屈の固まりであると言って良いと思うのだが、実は私が大学生の時次のようなことがあったのでお話ししてみる。

大学の卒業を間近に控え、旅行をかねて大阪と東京に行った時のことなのだが、大阪には叔母が嫁いだ先があり、そこの主人は建設関連の職人をしていたので、そこでアルバイトをしながら旅行の資金を稼ごうと思い十日余り世話になった。

叔父は人柄はとても良く、いつもニコニコと笑顔を絶やさない人当たりのとても良い人だったが共産党員であった。その為か叔母は、いつも叔父の言う屁理屈に閉口していたようで、ある時突然こう言ってきた「潤ちゃん、私がうちの人に共産党のことについて何か苦情を言うと、泥棒の世界では泥棒をしても罪にはならないのだから、関係ないと言うのだけれども、どう思う?」

私は「確かに泥棒の世界があれば、泥棒をしても罪にはならないだろうけど、その泥棒だって自分の物を盗られたらいい気はしないんじゃない」と言ったら、叔母は「その通りよ、潤ちゃんあんたは良いことを言う、そりゃそうじゃ」と言いながら、叔父の方を向いて反論を待っていたが、困ったような顔をした叔父は一言も言葉を返してこなかった。

この理屈には、私は現実味を感じないけれども、この種の人達は本気で思っているのだろう・・・しかし机上の理論の一つではある。敢えて言うなら「戦争の世界では人を殺しても罪にはならん」と同じように、このような屁理屈は何にでも適用出来るが、彼等が言う理論の中は「自分が殺されるのは嫌だ」の現実が抜けている。

同じく日教組が「国歌を歌わず、国旗も掲揚しない」と言い張るのは、冠婚葬祭に着てゆく着物に家紋を入れないことと同じだし、海外に行く飛行機に日の丸を付けないのと同じだと思えるのだが、自分の都合の良いところだけは別なのだろう。

また、確かこのようなことも平気で言っていた「日の丸の赤い色は血の色を表していて、戦争を起こす色だ」「国旗は戦争を引き起こす象徴だ」と、もう何が何だかこの屁理屈はさっぱり理解が出来ない。

私には、自分の思考をどのように歪めてみても、やはり理解が出来ないのだけれども、社会を構成する大人が、それも日本の将来を背負って立つ子供達を教育する立場にある者が平気で言う言葉とは思えず、百歩譲っても、こじつけか屁理屈にしか聞こえない。

このように「自由と平等」がもたらした弊害は、日本中の大人の心の中にしっかりと根を下ろし、棲みつき繁殖を続けている以上、いずれ今以上に恐ろしい社会が出現する。
 
                                     続きは後日