Vol.07
「〜その7〜」
誠に恥ずかしい大学時代の状況を掻い摘んでお伝えしましたが、立派な大人に助けられて、何とか無事に大学を卒業することができたけれども、実はもう一つだけ学生時代のことを付け加えたいことがあります。
自分自身でも驚いたのだが、それは親に対する私の心情が、その時大きく変化したことです。
大学の卒業式には両親が揃って出席したいと言いだしたので、少々驚いたけれども、二十歳を過ぎた男の卒業式に親が来るのは…と思いはしたが、まあいいか…と快諾した。
と云うのも、小中高と、このようなことは一度もなかったことなので意外に思ったのだが、高卒の両親にしてみれば、自分の子供は是が非でも大学を…の想いがあり、とても嬉しかったのだろう。
笑みを浮かべ「潤ちゃんおめでとう」と言った父親の言葉は今でも忘れていないが、両親の時代の「大学」の質と、私の時代の「大学」の質では天地ほどの差があるように感じていた私だが、両親が思う「大学」ということでは、まあ一応「大学」ではある。
そんな喜ぶ両親を見て、今まで親を騙しては小遣いをせしめていた私は、これまでの自分自身が恥ずかしくなり「今後一切、親に対して金銭的な迷惑はかけない」と心に誓い、実行して今日まで来た。
そして社会人となった一年目の経過は以前お伝えしたけれども、もうイヤになっていた建設会社を辞めて、次をどのようにしたらよいのか…と私の幼い頭が考えた結論は、建設会社ではなく設計事務所にしてみよう…だった。
しかし、設計事務所といっても、仕事の形態や内容はよく解らず、「図面を描くのだろう…」程度のことで、自信(図面を描いたり、構造計算をする)があって設計事務所にしようと思っていたわけではない。
それと、学生のころ広島市内に遊びに行った時に見たことを思い出したことが心を押した。
平和記念公園の近くを歩いていた時のこと、偶然見たあるビルの2階だったと思うが、建築設計事務所の看板が掛っていた。
そして、その一階の駐車場には、なんと!当時、私の憧れの車「ブルーバードSSSクーペ」と「スカイライン2000GT」の両方が停まっていたのだ。
「あ〜いいな〜設計事務所って結構良いんだ…俺はいつになったらこんな車に乗れるのだろう…」と思ったのだが、その時は高根の花と思い、気にも掛けなかったが、このことを思い出して、その気になった。
でも、肝心の設計事務所を知らないので困っていたのだが、そうこうしている内に、「そうだ!日本の設計事務所に勤めるより先に、岩国の米軍基地内の設計部で勉強してみよう…」と理由の判らない思考が起こり「それに、ここなら伝手がある」。
ということで勤めていた建設会社を一年足らずで辞め、米軍岩国基地・施設部に勤務することになるのだが、やはり世の中そうそう、こちらの思惑道理には運ばない。
身分は山口県の準公務員の扱いとなり、給与は地方公務員より少しだが少なかったように思うが、辞めた建設会社と変わりはなかったので当時の平均的な給与体系だったのだろう。
当時は米国と日本では比較にならないほど米国の方が高水準で、まだ一ドルが360円の時代である。家電製品・車・食料品等なにをとっても日本の方がみすぼらしく見えたし、確かに当時の質は米国の方が上であった。
そんな時代だったので、建築関係においても米国の方が圧倒的に技術面や機能面でも優れていると思って期待していたのだが、実際に勤務してみると、そうではなかったのだ。
ここでは、多くの優秀な日本人の技術者がいて、仕事以外の勉強にはなったが、建築関連の勉強にはなることはなかった。
直属の上司は呉市出身の一級建築士であったが、この人物はちょっと癖があった為に、周囲の評判はあまり良くなかったけれども、私にとっては人生教訓の多くを教わった面白い人物だったし、後に人の出会いとは本当に不思議なもので、縁がなければこの世では会えないものだ…とつくづく思うことを感じさせてくれた人物でもあった。
しかし困ったことに、勤務はすれども、毎日の仕事がないのだ!。どうして時間をつぶそうか…と思うことばかりが続き、つい母親に「毎日することがなくて、退屈で仕方がないので辞めようかと思う」と言ったら、母親が「なんて贅沢なことを言う、仕事がなくても給料がも貰えるくらい有り難いことはない」と厳しい返事が返ってきた。
そうか、母親は公務員だった、言う相手を間違えた俺が悪い!公務員はそれが我慢できるから公務員がやれるのだろうが、俺にはそれが出来ん!。
私は、若いころから金は欲しくなかったと言えば嘘になるが、金銭よりも自分の心の満足度を埋める方が幸せを感じていた性分があり、いよいよ設計事務所に行く決心が固まってゆくのだが、問題はまだあり、当の設計事務所を知らない。
思い余って、大学で講師(設計製図)をしていた先生を訪ねたのだが、今思い返してみても、何故この先生を訪ねたのかがどうしてもよく判らない。
特別に大学時代にお世話になったこともなく、親しくしていたわけでもないので、未だにこのことだけはよく判らないでいるのだが、先ではこの先生に一級建築士資格取得の際にお世話になることになろうとは、このときは思いも寄らなかった。
先生に相談すると、どうやら知り合いの設計事務所から求人を頼まれていたらしく、直ぐに広島市内にある建築設計事務所を紹介をしてくれた。
今のように携帯電話がある時代ではない、米軍基地内の公衆電話を使って、紹介してもらった設計事務所に何度も連絡を入れてみるのだが、いつも留守で、なかなか所長と連絡がつかない。
いつも電話に出てくれる所員は、こちらが何度も掛けるものだから、申し訳なさそうに応対してくれるので、此方の方が逆に何だか申し訳ないような気分になってしまい「本当に雇う気があるのかい?」と思った記憶があるが、数日してやっと所長と話ができた。
一度事務所に来てほしいとのことなので、休みを取り広島市に向かい、事務所を訪ねた。事務所は広島市内の中心部である紙屋町にあり、田舎者の私はとても緊張していたけれども、何とか面接?を終え、やっと設計事務所勤務が叶ったのである。
次回は建築士取得までの経過をお話しします。