Vol.14

 「〜その14〜」

 学科の試験は山口県で行われたけれども、製図の試験は広島市で行われることになっていた。

どうやら、学科試験は受験者数が多いので、それぞれの県で行われるが、製図の試験は、恐らく中国五県で学科試験に合格した数百人を纏めて広島市で試験を受けさせるのだろうと感じた。

 丁度この時私は婚約をしていて、相手は広島市で大きな精神病院(入院患者が二百数十名いた)を経営する医師の娘だった。

製図の試験が広島市内で行われることを聞いた婚約者の父親は「潤さん、試験の前の日はここに泊って、それから試験に行ったらどうだ」と言ってくれたので、当日、もし交通機関の乱れなどが・・・を考えると、とても有難く好意に甘えた。

試験当日の朝、朝食を取りながら皆で話をしていると、義父が「潤さん、頑張ってきなさいよ」と口にしたので「はい」と返事はしたものの、内心は不安でいっぱいだった。

大学での講習も中途半端のままで終わっているし、練習課題を時間内に書き上げたことなど一度もない。その上、練習課題を一通り完成させたこともなかったので、内心では「まあ、今年はダメかも知れないが、それでも来年があるから・・・」と思ったりもしていた。

義父はタクシーを呼ぶから、それで受験会場まで行きなさいと言ってくれたけれども、南区から西区までは結構な距離があるので、余分な負担を掛けたくない思いから、申し出を断ったのだが、どうしてもそうしろと言うので、私が折れて好意を受けた。

まあ考えてみれば、婚約者の実家の金銭感覚は貧乏人の私などとは桁が数桁も違う家だから、余計な気を使う必要などなかったのだが、そんなことは考えもしない若い頃の私であった。

 なぜこの様な結婚になったのかについては、何れ機会があればお話してみようと思うが、ここは割愛して先に進みます。

製図試験用の道具を入念に確かめ、受験票などの忘れ物が無いかを確認した後、呼んでもらったタクシーに乗り込むと、車のドアーを閉めた運転手に義母がタクシーチケットを渡していた。

この時始めてタクシーチケットなるものがあることを知ったのだが、世の中にはまだ知らないことがあるものだと思いながら、私は受験会場へ向かった。

西区にある広島市立の高校が受験会場であったが、タクシーに乗って行きながら道筋を見ていると、交通の便は余り良いところとは思えなかったので、タクシーは有難かった。

試験会場の地図は受験票と一緒に同封され、送られて来ていたが、設計事務所に勤務してまだ日の浅い私は、広島市内は不案内だったので、自分で一般の交通機関を使って来ることを想像すると、ちょっと難儀したかも・・・と思った。

 試験会場入り口に張り出されている教室割りと受験番号を照らし合わせて、自分が受験する教室に入り、製図板やT定規に筆記用具を取り出し、それぞれを自分が思い通りに動かせるような配置に並べて準備を整えたが、様々な想いが頭の中を駆け巡る。

暫くすると、問題用紙を抱えた試験官が教室に入ってきた。試験官は頃合いを見計らって問題用紙を配り、今までの試験と同じように注意事項を話した後に、腕時計を見ながら「始め!」の声を掛けた。

シーンとしていた教室が一気に紙を裏返す音でざわめき、受験者それぞれの想いを載せた一級建築士製図試験が始まった。

 課題を読み、重要なところや落としてはならないと思える箇所にマーカーで印を付け、特に大事なところはその部分を赤鉛筆で囲み、一通り目を通した後に、もう一度問題を読み返してみる。

マーカーを引いたところを一つ一つ重点的に整理しながら、頭の中でその関連を組み立ててゆくと、最初に読んだときとは違い、少しだが、どのように組立てればよいのか、全体像がぼんやりと見えてくる。

そこで、私はエスキース用紙に向かい、筆箱からBの鉛筆を取り出し企画を始めたが、途中で試験官が受験票に貼ってある顔写真と受験している本人の顔を照合するため覗き込んでくるので「え−い、せからしい!」気が散る。

問題に盛り込まれている要求と覚えている建築基準法を頭の中で組み合わせながら、法令違反とならないように注意をして進め、約一時間半が経過した頃にエスキースが出来上がった。

心の中で「よし!出来た。後は書くだけだ」と呟き、そして時計を見て「時間は十分ある」と思ったけれども、書き出す前にもう一度問題用紙を読み直しながら、自分が企画した解答案に間違いや勘違いがないかをもう一度確かめ始めた。

何と言っても、ここで間違って考えていた案を書き始め、例え時間内に書き上げ、完成させたとしても、それは不合格への一直線を走るようなものだということを理解していたからであり、若いくせに、この様な本質的思考だけは誰に教わることなく身につけていた。

 今度はマーカーや赤鉛筆で印を付けた箇所が、企画案に反映されていれば、その部分を鉛筆で真っ黒に消す作業を行いながら再確認をしていったのだが、何と!大変な勘違いをして計画していたことに気づいたのだ。

記載されている問題の内容を自分勝手に解釈して企画を進めていた部分があることに気付き呆然とした。一瞬目の前が真っ暗になり、「これではダメだ!どうやっても、もう時間が足らん!仕方がない、今年はもう諦めて、来年は十分な準備を整えてから、もう一度受験しよう・・・」と力なく思いながら、帰る準備をしようと思った瞬間にある言葉が頭を過ぎった。

それは、以前に勤務先の事務所で製図試験の話題になったとき、その話しの中で事務所の最年長の先輩が話していたことで「儂は製図の試験の時、計画が上手く行かず、とても時間が掛かったけど、結局三時間半で図面を書き上げた」だった。

そして、同時に今朝、義父が言った「潤さん、頑張った来なさいよ」の言葉が浮かんできたのだ。私は「そうだ、まだ諦めるのは早い!、もう一度計画をやり直してからでも遅くない」と思った途端、問題用紙をまた読み始めていた。

考えながら、鉛筆を動かしていると、周囲からは製図を書き始めている鉛筆の音が聞こえてきて、気は焦る一方であったが、一度失敗している計画を再度やり直すのに、自分が思ってほど時間は掛からず、四十分程度で何とか要求を満足させる計画が出来た!と思った瞬間に、解答用紙を製図板に貼り付け書き始めていた。

兎に角、脇目も振らず書いた記憶だけがある。机に向かい立って書くのだ。椅子に座ってのんびりと書いていてはとても時間が足らなくなる。図面は上手いし、書くのも早い事務所の先輩でも三時間半かかったというのに、図面も下手で書くのも遅い私に残された時間はそれより少ない。

無我夢中で書いていて、書き終えた!済んだ!と思ったと同時に試験官の「止め!」の声が聞こえたが、図面全体を見渡すと受験番号と名前を書き忘れていたので、「あっ!」と思いながら、震えるような手で何とか記入した。

解答用紙が集められ、私は帰り支度を始めたけれども、まだ興奮が冷め止まないのに、心の中では何かが終わったような気がしてきて、何とも言いようのない複雑な思いを感じていた。

五時間半の試験中に一度も用便にいってなかったので、膨れた膀胱を空にしたくなり、便所に向かった。小便器の前に立ち放尿していると気が緩み、安心したのだろうか、色々なことを思い出してきた。

「あっ」面積表を書き忘れた(ような気がする)、「あっ」あれも、そういえば「あれも」と最終確認が出来てないまま提出したものだから、思い出すことはこんなことばかりで、一気に気落ちしてしまった。

帰りは婚約者の家を訪ね、試験の結果(様子)を義父に報告しようと思っていたけれども、とてもそんな気分になれず、山口県の方角に気も足も向いてしまい、沈痛な想いと共に電車に揺られながら家路に就いた。

 私が二十四才のとき、十月の小春日和の日曜日、翌年の四月に結婚式を控えた青春最後の時であった。