Vol.01
「〜その1〜」
建築設計事務所を開設して10年が経とうとしている頃には、既に私の作品も全国誌にも掲載されるようになり、会社の知名度も上がってきていたし、同時に所得も随分と増えて、年間所得は2000万円を超えていて、知人の勧めもあり広島市に新設されるライオンズクラブのチャーターメンバー(創立時の会員)にもなっていた。
また、平成元年(1989年)に広島工業大学から要請があり、週一回ではあったが(多い年は週二回)建築学科の非常勤講師を勤めていたので、本当に忙しい毎日だった。
そんな中、以前お話しした不動産関係の税法を学ぶために「宅地建物取引主任」の勉強に通った「N学院」の学院長(社長)が事務所を訪ねてきて、建築士養成講座の「設計製図」の講師を依頼されたのは、確か平成3年頃ではないかと思う。
仕事をしながら大学に週一回教えに行き、その上ライオンズクラブの例会は月二回あって、入会時よりずっとクラブの役員をしていたので、とても忙しかったけれども、私は快くその依頼を引き受けた。と言うのも、大学で学生を教えていても手応えが無く、何か物足らなさを感じていたので、社会人を教えてみれば違った充実感が得られるかも知れないと思ったからだ。
手始めに二級建築士の講座を依頼されて、四五名程度の生徒の指導を任された。
私は建築士製図試験の指導を行いながらも、時折設計に関するあらゆる条件や自然科学に基づく法則を上手く使って建物を設計している実情を生徒に教えてみたら(大学でも同じ事をしていたのだが)全く反応が無かった学生とは違い、社会人であるN学院の生徒は敏感に反応してきた。
少し手応えを感じた私は、我が意を得たりの感が持て、N学院の講義はとても楽しいものになっていった。
そのような中で、印象に残っていることや感じたことをお話ししてみたい。
二級建築士の生徒の年齢は二十代〜三十代までの若い方が多く、職業は決して建築関係の人ばかりではなかったので、私はどのような指導をすればよいかを決めるために、現在の職業や製図の経験を聞いてみたら、中には(建築や設備会社の)事務員や(建築関連)家具販売員の生徒もいるし、製図の経験が全くない者までいる。
建築士受験資格に該当しない者が三割近くもいると思ったけれども、もう既にお金を払って生徒で来ている者達だ、「何とかしてやろう」と思う気持ちと「こんな生徒を集めてきて・・・」と思う気持ちが複雑に交差していたけれども、私の口は「絶対に合格させてあげるから、私の言う通りにして下さい」と言葉を出していた。
一級建築士の製図試験は「素人」の人を合格させるのは絶対に無理だが、二級建築士の製図の試験なら、学科の試験に合格した者達だ「素人」でも合格させる自信はある。
しかし、このことが良いことか悪いことかと言われれば、何とも言い難いのだが、建築士の試験は「素質資格」だと思っていた私は、二級建築士になってから、研鑽してもらえれば良かろう・・・と自分を納得させていたが、正直言って、建築士の粗製濫造をしているのではないかの感を否定することは出来なかった。
ある年の開講日のことだ、若い生徒に混じって年配(四十代)の女性が三名ほど最前列の席に並んで座っているではないか。その内の一人は分厚い眼鏡を掛けていたので、近眼ならまだ良いけれども、もし老眼だったら・・・との思いが一瞬頭裏をかすめ気になった。
と言うのは、当時の二級建築士の製図の試験課題は木造の設計が多かったので、その平面図を書くには1mm角の柱を表現しなくてはならないから、目が悪ければ書くの時間がかかる。
その日の講義の合間にその女性に尋ねてみた「あなたの眼鏡は近眼用ですか、それとも老眼用ですか」すると「老眼が少し入っています」の返事に私は愕然としてしまったが、それでも製図の表現が上手ならまだ良いけれども・・・と思いながら「老眼だと大変だと思いますが、頑張りましょう」と励ましておいた。
製図の課題に取り組む前には、手始めに参考例の図面を複写して書かせてみるのだが(個人の製図表現の力量を見極めるのに好都合)、この女性が書いた製図はとても合格圏内に入るような表現ではなかった。
私は、この女性はこの年齢になって何故建築士の資格必要なのだろう?と不思議に思っていたものだから、何課題かをこなしてゆく間にそのことを聞いてみた。
すると「私は、建設業をしていて、実は主人が負債を背負って逃げてしまったので、その後を引き継いでやっています。人には迷惑を掛けたくないのでこうして頑張って借金を返そうと思っているんです」と言うのだ。
それで納得した私は、これは何としてでも建築士の資格を取って貰いたいと思ったのだが、正直なところ、初期の段階を見る限りでは、この方はとても合格できないかも・・・と感じていたが、課題をこなす毎に少しずつ力を付けてきて、講義の最終段階の頃には上手く行けば合格するかも・・・というところまで来ていた。
私は試験前最後の講義にはいつも次のように生徒に言っていた「皆さんのうち殆どの方は今回の試験で二級建築士になられると思いますが、しかし資格を貰ったからといって、建築士としての力が突然備わったわけではありません。勘違いをしないようにして下さい。今回の皆さんの資格は○○(今回の課題の建物:例えば喫茶店併用住宅)二級建築士です。その他の建物だと、とても設計できる能力は今はありません。今後二級建築士になってから、しっかり勉強して下さい」と、私が若い頃に感じたことそのままを伝えたものである。
しかし、その数ヶ月後の合格発表には一番気になっていたこの女性の名前があったので、何より嬉しかったことが思い出として残っている。
そして、その後彼女は△△工業(有)に念願の二級建築士事務所の看板を掲げ、現在は成長された息子さん(当時は高校生だった)を専務にして建設業をつづけておられる。
先日その会社の三十周年記念パーティと彼女の還暦を祝う会に招待されて、懐かしく当時を思い出していたところ、突然の挨拶をお願いされたので、この経緯を話しながら「・・・そいういことで、建築士資格取得では随分と気を使い、心も配りましたが、体だけは使っていません」と話せば、出席している皆さんは大笑いし、続いて「そう言う意味では現在△△(有)が今日あるのは私のお陰といっても過言ではありません!冗談ですけど・・・」と言えば会場が大いに盛り上がりました。
とても和やかな夕べで幸せを感じられた日であった。
次はもう一つあった、とても面白い話をお伝えします。