Vol.03
「履物」
足袋と靴下も、文化の大きな違いの一つであろう。
少し前の話になるが、国際的な金融関係者がトルコを訪れた時に、靴下に穴が開いていた事が報道され、話題を振り撒いた。欧米を訪問すればこんなことは無かったろうに・・・と気の毒に思った。彼はトルコのモスク内で礼拝をする時、靴を脱がなければならない事を知らなかったのだ。それは無理からぬ事で、他の国全部を詳しく調べた訳ではないが、現在建物の中で靴を脱ぐ文化を持つのは、日本と韓国、インドネシア、中国の一部だけだと思っている。その金融関係者は、まさか自分のベット以外の場所で靴を脱ぐことなど想像すらしていなかったに違いない。靴下に穴が開いていても、それを知る者は自分以外いないのが他の国の常識であろう。トルコでモスクに入る時に靴を脱ぐ行為は、 祈りを捧げる神聖な場所では汚い土足は厳禁という認識だと思われる。
以前「室内犬」の項でお話した通り、欧米や大陸では家の中まで土足で生活する。なぜそうなったのか?の経緯は調べていないので分からないのだが、私は次の様に考えている。大陸で国境という、いつ壊れるかも知れない、あやふやな線の内側で生活していると、今日か明日にも隣国が攻め込んで来るかもしれない不安と、又それを現実に幾度も繰り返してきた歴史的事実がある。急いで逃げるには靴を履いたまま生活している方が合理的であるからではなかろうかと思った。これも一つの生活習慣なので、血の流れ(遺伝子による民族特有のもの)もあると思われるが、理論上で考えれば前述したこと以外想像がつかなかった。
余計な事だろうが、この世の生とし生けるものの中、巣を持つ生き物が土足で家(巣)に帰り、生活しているのは、獣と鳥、魚の一部であろう。アメーバやバクテリアなどの単細胞生物や昆虫などは巣すら持っていないものが多い。とすると、生物の文化序列を、巣を持つか否かで順位をつけるとこうなる。全く巣を持たない→巣を持つ(土足で巣に入る→土足では巣に入らない)
やはり日本の文化はすごい・・・。我々はそれが日常生活の当たり前なので気付いていないだけなのだ。
実はこういう事実を皆さん知っていますか?私は仕事を通じて体験し、実感した事があるのでお伝えしてみたい。恐らく世界中で誰もこの事に気付いた人はいないと思っていて、大学での講義では学生達に話してきたのだが、余り興味を持ってくれなかったので、残念であった。又、外国人には到底理解できない感覚のものだ。
仕事で建物を創る時、依頼の中には住宅、工場、事務所、病院・・・と様々な用途の建物があり、その設計をし、工事現場で工事監理を行う。建物が完成し、竣工検査を行う時、ある事に気付いた。工場など、そこは靴を履いたままで作業や執務を行う場所だから、こちらも靴を履いたまま検査を行うのだが、仕事の内容が工場という用途もあり、少し荒くとも気にならない。又、住宅や事務所ビルなど、靴を履いたまま現場の監理をしている時はさ程気にならなかった場所や部分が、竣工間近になり、素足で現場に入ると、それまで気にならなかった箇所が目に付き、手直しをしたり、仕事の精度を上げてもらうように現場に要請することがあって、あれ?と気付いた事なのです。
それ以前、ヨーロッパや中国、ハワイなどへ行った時に、靴を履いたままで見ても建物の仕事の荒さは随分気になったもので、日本でこんな仕事をしたら建築主に引き渡せないし、建築主も苦情を言い、建物を引取らないだろう・・・と思った。これは理屈ではないのです。皆さんの自宅に靴を履いて室の中に入ってみて下さい。見えるものが別なものとまでは言わないが、そういった感覚になりますし、見る目が荒くなる筈です。
室が汚れてはいけないので、新品の靴を買った時に試すか、新聞紙を敷いてやってみて下さい。必ず私の言う事が理解できます。つまり、靴を脱いで生活している日本人の方が、他の国の人間よりとても細やかで繊細な目や感情、心配りをして日常の生活や会話、子育て、調理、食事、接客を営んでいるという事実をもう一度再確認して頂きたい。
以前テレビの番組で「お宅拝見」のような番組の中で、ある小金持の人の家であったが、土足で生活する家を新築していた。何を勘違いしているのか、錯覚か、水虫育成には絶対的効果がありそうだが、日本に於いて、又今の現状下で他国からの侵略を想像してみても、何一つ利点はない。
日本の足袋などは本当に良く考えられたものだとつくづく感じさせられる。皆さんは足袋と言えば白いものと思っておられると思いますが、昔は黒い足袋もあったが裏地は白、他の色もあって、その裏は表地と同じ色物もあり、恐らく作業履きに使っていたと思われる。白色は汚れていない(穢れていない)ことを相手に示す色として用いられたと考えられ、現在でも公式の場や、冠婚葬祭などには必ず白を着用する習慣となっている。
しかし、欠点が一つだけある。足袋の裏が白いので、汚れれば汚く見える・・・。しかし日本人の生活の知恵は凄いものがある。日本の生活はかつて座しての生活が主体であった為、足袋を履いて室内を歩く。座したままでその姿を見ると靴を履いた時のように踵から先に歩くと、つま先あたりの足の裏が見え、相手に不快感を与える。それ故に、つま先から滑るように歩くのである。これは男女を問わず日本の良き昔の習慣であり、躾であった。
私達の年代は、家の中の生活が小学生の高学年の頃より、机とイスの生活に変わっていったので、それ以来、普段の生活で人の足の裏を見ることなど無かった。ところが10数年前、香道と出会い、香席に出るようになった。その時改めて日本文化の生活の知恵として生み出された作法を目の当たりにした。初めて香席に出た時の事、香道の師範の足捌きの美しいこと、まずそれに感動した。足の運び方、向きの変え方、立つ時、座る時、障子や襖の開け閉め、とても美しい立ち振舞いで、白い足袋の裏側など全く見えなかった。
しかし、その後に若い生徒さんの立ち振舞いを見ていて“はっ”と気付いた。靴を履いた時と同じように踵から足を運ぶので、足袋の裏が見えてしまうのだ。当然少なからず汚れている。美しい着物を身に纏い、白い足袋を履いていてもこれでは・・・。恐らく私より何年も早く師範について学んでいたことであろうに。香道の作法を覚える事ばかりに気を取られ、それ以外の大切な部分に目が届いていないとは残念であったが、所詮女子である。一般的には教えなければ学べない性を持ってこの世に出されている。自ら学ぶ能力を身に付けてこの世に出された女性は少ない。
ここで一言お断りを申し上げる。時折、女性蔑視のような表現があると感じておられると思いますが、これからはもっと多くなります。しかし、決して女性を蔑視している訳ではありません。男と女の役割や能力、体質、性に至るまで、全てが違う生き物なのに、同じ生き物だと錯覚している事を言いたいが為、こういった表現になっているのです。いつ終わるか分からないこのWEB日記、最後まで読んで下されば、その意味は必ずご理解頂けると確信していますので、途中で怒らないで下さい。
近年の成人式でも若い女性の振袖姿を良く見る。式が終わり街中に出てきている。足元は足袋、草履であるが、歩く姿は内股ではなく、歩幅も大きくて着物の裾がバタバタと音を立てて、足の運びはつま先からでなく、靴と同じ踵からである。気が我が身に向かず、男や仲間ばかりに向いてしまっている。女子にもう少し、ほんの僅かでも我が身に気を配る(化粧や服装やマニキュアとは違う)余裕と志向があれば、今のような乱れた世の中になる事は防げたのに・・・と思ってしまう。
学校の教育では限界がある・・・。家で親が厳しく教え躾けねばダメだ。特に女子は自浄能力を持ち合わせていないのだから・・・。戦争に負けるまで、日本は1000年以上これを続けてきた。それ故に乱れた社会は一度も経験が無い。
日本の昔の履物は、草鞋、草履、下駄であった。これらには全て鼻緒があり、足の指が開くことで体重を支える足の裏の面積を広げ、足の指全体が歩行時に動かせるので、体を安定させる力を持ち、その上靴と違い通気性も良く水虫になり難い。窮屈に足を締め付ける事も無いので、外反母趾も昔は無かったであろう。実はこう言う私も昔は人並みに高級靴を沢山買った経験がある。フェラガモ、バレー・・・と一足で5万円以上するものも買って履いていた事がある。その時「カンガルーの柔らかい革を使っているので足に負担をかけません。」と店員が言い、別れた女房もその時に同じようなことを言っていたが、長時間履いているとやはり足は痛い。どんなに革が柔らかかろうが、足のむくみ等に靴は対応してくれない。だからといって少し大き目を買うと、歩く時に踵がすっぽ抜けて歩き辛い。底敷きを使ってみたりもしたが、満足のゆくものにはならなかった。
ところが、ある時、今とても貧乏しているので、通販の革靴を見ていて、とても安かったが気に入った形だったので購入してみた。すると、とても履き良いのでびっくりした。そして何がその理由か、教えてもらって始めて知った。靴には3Eとか4Eとかのものがあるということだった。今履いているのは4Eである。とても楽に履けていて、有難く感じているが、高級靴には4Eは無かったように思う。高い金額を払い、足を痛め、一体何をしていたんだろうと、不勉強を恥じた。知らないという事は、こういう事なのだと、改めて無知を反省した。
しかし、本当に良いのは草履や下駄だと思っている。早いうちに普段着(背広の代替とする意味)を日本人であるから着物に替えたいが、今の社会生活では動きに少し無理があるので、作務衣にでもして、靴を草履に靴下を足袋にしたいと思っているのだが、唯一つ問題の解決が付かないことがあり、今まで踏み切れなかった。それは収納力の問題で、私は服のポケットに財布、手帳、名刺入れ、ハンカチ、リップクリーム、短い三角スケール、シャープペンシル、ボールペン、黄色のマーカー、扇子と鍵をいつも持ち歩いている。背広にはこれら全てを収容する能力があるのだが、着物や作務衣には無い。
よく、小さい鞄を持ち歩いている人がいるが、忘れっぽい私には無理だ。恐らく持ったその日に必ず置き忘れる自信がある。そこで、これを書きながら思い付いたのが、作務衣に内ポケットを付けたら、解決するのではないか・・・というバカみたいな答えだ。私も世間様と同じように既成概念から抜け出れない部分があったという事だ。足らないものは足せば良い。無ければ付け加えれば良い事に気付かなかった。あ〜恥かしい。
さて、長年の悩みは解決が付いた。いつこれに切り替えるかだ・・・。還暦を迎える時にしようか、来年の1月1日から・・・いや、年度替りの今年の4月1日からにしようか・・・と頭の中が迷っている。しかし、まだ問題がある。作務衣の内ポケットを付けてくれる所を知らないし、草履や足袋も買い揃えなければならないので、余分な出費がいる事を思うと気が重い・・・。しかし、そんなことを言っていては文化論をほざく者としては失格である。男はやせ我慢がどれだけ出来るか、どれだけの見栄が晴れるかが値打ちである。
おじさん世代は男を貫き通したいので、それなりに結構しんどいのだ!。
若い頃よく白い靴下を履いたが、欧米の靴下に白い色のものはあるのだろうか?もし無いのであれば、日本人はなぜ白い靴下を履くのだろう。単に足袋の名残りとは思えない・・・皆さんもお考えあれ・・・。