Vol.02
「〜その2〜」
本題に入る前に以前から不思議に思っていたことの一つを聞いて下さい。
私には、何事に関しても少し変だと感じたら、すぐ疑問を持ってしまい、それがどの部分なのか?何処が変なのかを追求してしまう悪い癖(習性?)があります。以前から、この習性故になんだかんだと、このブログに色々なことを書き綴ってきましたが、今回もその一つになります。
やはりTVの宣伝なのですが、三菱自動車の宣伝で「MiEV」という車(電気自動車だと思われる)の宣伝に出ている女性が話すことについてです。この女性が語りかける内容は次のような言葉で、二回ほど話をする。
それらは「携帯電話のように家庭のコンセントで充電できる」と「CO2ゼロで走る」である。いずれも言葉の内容には問題はなく、内容はとても良いものだと思うのだけれども、初めてTVでこの宣伝を見終えた時に、何となく違和感を感じてしまい、何が変なのだろう?と思っていたのだが、数回見ている内にその疑問は解決した。
それはこの女性が発声する口の動きであった。この女性が話す二つの宣伝文句は、最後が共に「る」で終わっている。人が「る」を発音するときの口の形は、唇が少し先に尖るようになるはずなのだが、宣伝の中に見る女性の口の形は笑ったような横長の口元になっている。それ故に、とても不自然で違和感を感じたのだ。
そう言えば、芸能人は話をする時、笑顔で話をする訓練を受けたり、したりするのだと以前に聞いたことがある。これがそのことなのだと感じたものの、だからといって心が感じる不自然さを払拭する事にはならなかった。それ以来、随分と気を付けてTVの宣伝で話す人の口の動きに気を配って見ているのだが、これほど違和感を感じる酷いものをまだ見つけていない。
見ている側に好印象を与えるということでは、これも商業上では大事なことなのかもしれないが、違和感を感じるほどになっては逆効果だと思うし、不思議なのは男性が話す場合はこれをやらないことだ。男がこれをやれば、きっと気持ち悪くて仕方がないだろうことは容易に想像がつくのだが、女がやれば(女にやらせれば)好印象になる・・・とは、はて?人が持つこの心理は一体何?。
この回答は後日に回すこととして、この悪しき商業主義は好きになれない。嘘の姿を作り、好印象を与える事が良いことだとするのは、悪しき欧米の商業主義から来たものであろうと思っている。誠実で勤勉であった、かっての日本国民はこのようなことを受け入れるはずもなかったと思うし、許す国民性でもなかったと思う。この宣伝を見て違和感を感じないのであれば、思考や感覚が悪い意味で欧米化してしまった証拠であると確信している。
その上、TVの宣伝の制作には大金が使われているはずだから、当然この会社の役員は、この宣伝を放映する前には必ず見ているに違いない。そして出した結論は「これでよい」だったということになる。日本の一流企業の役員がこの感覚なのだ。売らんが為なら何でもありの姿勢の一端が覗われる。別に法に反しているわけではないので、何が悪いか!と言われればそれまでなのだが、今の日本が乱れた原因はここにもあると感じている。
法に触れなければ“何をしても良い”という気風は現在の日本中に蔓延していて、政治家、官僚、役人、大企業のサラリーマン経営者や役員、大高中小学校の教師など、社会の手本とならなければならない職種に就いている全ての人達の意識の根底に、これがあるように思える。
だから年中新聞紙面や週刊誌、ニュース等で話題になってしまう。政治家の「何とか還元水」や「議員宿舎の愛人同居」「交際女性の覚醒剤使用情報漏洩」など、法には触れてないのかもしれないが、国民から搾り取った血税で生計を立てている輩がやることではあるまい。
こういう事で一々中傷されたくなければ、議員報酬は一切受け取らず、政治活動費から接待費用まで、自分の財産を持ち出ししてでも議員活動をやるような人物でなければならない。それなら私は苦情は言わないし、逆にこういう人物こそ政治家になって欲しいと思っているくらいだ。
以前の日本人の多くは、たとえ法に触れなくても、己の仕事や生き方に「誇り」と「自尊心」を持ち「道」を知り「則・徳」を弁え「恥」を知っていた。こういった大人が沢山いた時代は良き時代であったはずである。この日本では、それは何時の時代であったのだろうか?。これから悪しき平等と自由を語る内には自ずと明らかになろう。
長い前置きになってしまいましたが、解明の一環としてお許しあれ。
これから先は、私の「独断」と「偏見」に基づいた見解であることを先にお詫びしておきます。
そして特に女性の方は、立つ腹を横にして面白可笑しく捉えて笑って済ませて下さい・・・全て真実ですから。
「レディーファースト」と言う言葉がアメリカから戦後日本に輸入された。
意味は「女性優先」であるが、当時このことを日本では次のように言って、その意味を理解していた。
アメリカでは「店舗など建物に入るときは、男が入り口の扉を開けて、女を先に入れる」「車に乗るときも、男がドアを開けて女を先に乗せる」「エレベータに乗るときも女を先に乗せる」「飲食店などに入れば、男が椅子を引き女を先に座らせる」などである
この部分だけを聞けば、アメリカでは随分と女を大事にする国なんだ・・・と誰もが感じてしまい、日本の女は「私たち日本の女は、今まで虐げられていたのでは?」と感じたことだろう。
しかしこれはアメリカでの社交辞令的な姿を見たり、下心見え見えの男の姿を見たと思われる日本人が、勝手に過大解釈したことであろうと思われることに過ぎず、意味が違う。
ただ日本では皇族や旧財閥などの特別な女性でもなければ、いかに社交辞令的であったとしても、一般的に男はアメリカで見られるような行動を世間の前で取ることはなかった。
私たちの世代は、戦後経済成長が続き異文化が浸透してゆく最中、よくこの「レディーファースト」を耳にしたものだ。
その時、さも天下でも取ったかのように女が言う言葉「レディーファーストでしょ、こんな事も出来ない(知らない)なんて、あなたは最低!」である。はてさて、何を勘違いしたのか、この特権意識と思い上がり。建物に入ったり、エレベータに乗ったり、どちらが先でも良かろうし、車に乗るの際に身障者でもなければ自分でドアを開けて乗れば良かろう。
それから約40年が経過した日本では、結果的に「レディーファースト」は根付かず、この言葉さえ聞くこともなくなってしまっているが、その代わり女が振り回すようになった権利と自分勝手な主張の激しいこと。
昨今の事件を見たり、話を聞いていると、日本の社会では「ジェントルマン・ファースト」にして欲しいと感じることの方が多いのは私だけだろうか。
さあ次に、では何故、特にアメリカでは「レディーファースト」なのか?これを理解しなければ何の解決にもならないということになるので、独断と偏見で解明する。
「レディーファースト」の意味の原点はどこにあるのか調べたところによると、ヨーロッパの古代ローマ帝国時代に既にその傾向があったと言われているようだが、母なる女性を「尊重」するところから来ているようだ。その後、女性の服装(ロングドレス着用時)などによる動きの不自由さなどに配慮するべく、人(男)としての優しさからの行動などを「レディーファースト」と表現したものと思われるが、実際は違っていると考えている。
人としての優しさなら日本では古より、相手の男女を問わず「礼儀」として又「思い遣り」「気配り」「いたわり」を持って相手を「尊重」した社会生活を営んできた長い歴史があり、欧米なんぞの下心見え見えの薄っぺらい「尊重」とは質が違う。
特にアメリカの西部開拓時代から南北戦争において、主な農林産業は「放牧」と「綿花生産」である(もちろん小麦やトウモロコシ、果実などの生産もしていた)が、話としては「カウボーイ」とアフリカから連れて来た奴隷「黒人」を主人公にしたいので、この二つの産業を挙げた。
アメリカにおける放牧や綿花の生産に要する土地の広さは何十、いや、何百ヘクタール単位であり、これを家族単位で運営していた。燐家は遙か彼方にあり、我が家からの視界にはいるような所にはない。それ故に親睦を深める(土地の境界や放牧牛の逃亡や盗難などの諸問題の円満解決の為)ことと称してパーティーを開き、馬に乗っても数時間以上掛かるような距離にいる近隣他家の家族を招いていた。
親睦、交流も目的の一つではあったであろうが、真の目的は他にあり、それは「見合い」の場所であったはずだ。日本のように街では家を出て数メートルに隣人が住んでいて、農家でもせいぜい数百メートル歩けば燐家がある様な土地柄ではない。家族単位で運営している家業に若い労働力が無くなれば倒産するし、広大な農地に囲まれていては、若い男女がお互い知り合う機会もない日常生活だ。
一家として考えれば、息子に嫁を迎えて、嫁が子供を沢山産んでくれれば家業は安泰となるので、嫁は必需品であったはずである。要は嫁確保の目的から来た結果であると思って間違いない。
嫁に来て貰うために、交際期間中は「レディーファースト」を全面に押し出してでも機嫌を取らなければならなかったということだ。
兎に角、お互いの顔や名前すら全く知らない者同士が(あの人は何処の誰々などという予備知識もない)、突然パーティーで顔を合わせることになるのだから、出席している若い夫婦や既に付き合っている男女は公然とキスをして、「この人は私の主人である。私の恋人である」ということをその場にいる人達に認識させておかなければ、問題が起こる。
このような背景を持つアメリカでは「公衆でのキス」は争い防止策として行っていたことが習慣として残っていると思われ、愛情の表現をしているわけではない。何のことはない、今の日本における農家の嫁不足と原点は同じで、もし農家に見合いの話などあれば、それはそれは日本でも「レディーファースト」の扱いを受けるであろう。
だからアメリカの言う「レディーファースト」は見せかけの下心見え見え「尊重」であるのに、日本の女はその上っ面の都合の良いところだけを捉えて、もっと大事に扱え!男と女は平等だ!差別をするな!と叫ぶ。そして「レディーファースト」には、女はか弱い者だから優しくしなければならない・・・と言う解釈もある。しかし、平等で同権と言うのならなら、こんな失礼な解釈はないので、女は「女がか弱いとは、何と失礼なことを言う!馬鹿にするな!」とこう言うべきなのだが、現実は違う、ここだけは「その通りよ。女はか弱いのだからやさしくね・・・」ときては、開いた口が塞がらない。
そして肝心なことの一つに、欧米の夫婦は、財布を男の方が握っている事を知らない日本の女は多い。その理由として欧米の男はこう言うのだ「仮に一週間分の食費と生活費だとして嫁に金を預けて買い物に行かせれば、帰ってきたときに嫁が手にしている物は自分の服か宝石だ」と。
物欲の権現のような嫁(女)に金を任せることは出来ないと言うのだ。だからスーパーマーケットなどの買い物にも旦那が一緒に行って支払いをしている訳で、別に優しさや愛情の表現でも何でもなく、欧米の旦那はひたすら銭守防衛をしているに過ぎないのだ。
この辺りを見ても、とても「レディーファースト」とは言えず、大事にしているとも思えない。
それに比べ、何故日本では同じ女なのに財布を嫁(女)に握らせている家庭が多いのだろうか。ほとんどの家庭では旦那の稼ぎは全て嫁が握っていて、その使い道まで嫁が決めている。
この違いこそが悪しき文化の原点の一つなのだ。東西洋を問わず、基本的に女というものは本性の部分で「欲」な生き物である事に違いはない。それは女は自然に近い生き物だから、理性より本能が勝るからである。
本能とは「食欲」「性欲」「物欲」「所有欲」「生存欲」「好き嫌い」などを言う。こう言うと大概の女は「そんなことはない」と反論するが、これはこの通りである。このことの証明は後日にして、何故日本の女は財布の管理が出来るのか?。
それは教育のお陰である。女は理性より本能が勝るということは、長い人類の歴史から学んできたことで、男が・・・と言うより社会全体(理性的な女や人生を切り抜けてきた女を含めて)が理解をしていた。もちろん人の社会には理性的で理知的な賢い女もいるが、あくまで「的」であり、理性が本能を上回ることは少ない。
だから、日本では幼少の頃より徹底的に女を教育してきたので、世が乱れることは少なかった。それは「躾」をし「たしなみ」を教え「貞操」を守らせて、女としての「格」を上げたからである。そしてこれは母親から娘へと長い間脈々と受け継がれてきたけれども、日本が戦争に負け、欧米から輸入した「自由」「平等」の名の下に、いとも簡単に壊されてしまった。
この教育を「封建的」と言い「虐げられた」と言って捨ててしまい、「自由にやってきた」60年後の今の社会の乱れようは一体何なんだ。
今の若い女は料理をせず、いや出来ず、掃除もしない、当然裁縫など出来ようはずもなく、綺麗な洋服や靴を身にまとい、ブランド物のバックや時計を欲しがって、又遊ぶ金ほしさに我が身をも平気で売る少女達、深夜家を出て遊びに行く娘を窘めない母親など、女としての「格」は下がる一方である。これが悪しき「自由(解放されたと称する女)」を受け入れてしまった現実の日本の姿だ。
欧米の「平等」「自由」は日本人が観念的に捉えている「自由」と「平等」とは、かけ離れて異なることを理解して、もう一度思考の再構築を行わなければ本当に日本は滅びてしまう。