Vol.05

 「〜その5〜」

 「(何をしても良い)自由」と、「(誰もが)平等」の意識が急速に日本中に浸透し始めた頃、当時の大人ですら、多くの者がこのような感覚に陥っていった。このような世情背景の中で、思春期だった団塊の世代は男女を問わず、獣が翼を得たような感じがしたのではないかと思う。
丁度この頃、現東京都知事である石原慎太郎氏の著書「太陽の季節」が発表されて話題となり、「太陽の季節」は、暫くして氏の弟である石原裕次郎(故人)主演で映画化され、一世を風靡した。高校生は喫茶店やボーリング場への出入りを禁止されていた頃の話である。当然ゲームセンターやコンビニエンスストアーは無く、たばこやジュースの自動販売機など、まだ日本各地に行き渡ってない時代だ。

今の若者からみれば、この本(映画)の内容など“それがどうした。馬鹿馬鹿しい”程度のことで、一世を風靡したなど信じられないであろうが、当時はまだ日本人の意識や心の中に(良い意味での)「枠」があったから、衝撃的であったということだ。家庭では幼少の頃より祖父母、両親から厳しく「躾」を受け、学校では教科の中にまだ「道徳・倫理」のあった時代である。

 この「枠」は、それぞれの家庭環境や経済状況、教育水準にもよるが、人によっては何重にも掛けられていた。いや、掛けられていたと言うより、祖父母・両親・兄弟・親戚・隣人達と日常生活を営む内、自分の意識の中に自分自身で「枠」を作り、自分自身に掛けていたものだったと思う。

そして、当時の日本人は、この意識を老若男女を問わず殆どの人が持っていて、暗黙の了解のように、その意識をお互いが尊重し認め合って、良き人間関係を構築していた。

 ではこの「枠」とはどのようなものを指すのかと言えば、人の心の中にある「らしさ」「みっともなさ」「分相応」「たしなみ」「慎み」「躾」「美徳」「恥」「自負心」「道徳」「礼儀」「感謝」「思い遣り」「気配り」「譲り合い」「助け合い」などであるが、どの言葉をとってみても、心の尺度によるもので、中身はとても「曖昧」な上、「幅のある」ものだ。

例えば「(女)(男)(職業名や地位名)らしさ」とは具体的にどのようなこと指し、その意味は何であるかを問えば、人により様々な答えが返ってくるはずなので、普遍的な定義はないけれども、共通したものはある。

しかし「らしさ」の言葉の裏には、(女)(男)(職業名や地位名)は「こうなりたい」「こうあって欲しい」「こうあるべきだ」「「こうでなければならない」など、「願い」「想い」「義務感」「使命感」のような、立場によって人それぞれの気持ちが込められているものだ。

また、「らしさ」と「みたいな(・・のような)」及び「似ている」は全く意味が違う言葉だが、思考が欧米化した今の日本の若者に、この違いがはっきりと判るであろうか?。

恐らく・・・なのだが、欧米には「似ている」という言葉はあっても、「らしさ」という言葉はないと思っている。まあ、仮にあったとしても、日本人の感覚のものとは異なるものだろう。

 日本では「長男(女)らしく・・・」「嫁らしく・・・」のように言い、大体その後に、だから「・・・しなさい」「・・・しなければいけない」「・・・しようと思う」の言葉が続くが、「次男(女)らしく・・・」や「末っ子らしく・・・」の後にはこれらの言葉は通常言わないものだ。

「次男(女)らしいね」「(やはり)末っ子らしいね」などとは言うけれども、その意味は、この子達の言動を見て(甘やかされて育てられた様子を親しみを込め)少し小馬鹿にしたような感じのもので、会話の中では、皆がこのような言い回しをしていた。

このことを封建制度や家長制度の名残だと言ってしまえば身も蓋もない話で、私が言いたいことは、このように、人それぞれの立場で、良い意味での「枠」が沢山あったし、自分自身でその「枠」を持っていたからこそ、「自戒」が出来、「自制」が出来ていたと言うことだ。

だから、私は行き過ぎては問題があると思うが、封建制度や家長制度の考え方が一概に悪いとは思っていない。良い状態で残すべきだったのでは・・・と思っている。

 戦後、悪しき欧米の「自由」と「平等」を輸入し、鵜呑みにした日本人は、この制度を“時代遅れだ、悪しき習慣だ”と言い、一気に葬り去ってしまった。

その他の言葉「みっともなさ」「分相応」「たしなみ」「慎み」など、どれを取り上げてみても、全て欧米にもある言葉だが、日本人が思う意味とは質の違うものだと考えて良い。

それは、これらの言葉を日本人は己の心に照らし合わせて「内面的」にとらえるが、欧米人は打算的損得勘定や合理主義に基づいて「外見的(対外的)」にとらえる。欧米人は自分が「損」をするから、「不利」になるから、などが根底にあり、日本人は誰に対してではなく、自分自身に対して「恥(ずかしい)」を感じるからである。

どちらが良いとか、悪いとかを議論をする問題ではないが、これは長い歴史の中で培ってきた民族の血の流れの中にあるもので、理屈ではない。

 例えれば、状況は違うけれども、日本人独特の感情でもある「穢れ」意識の一部を見てみると、先ほどの“血の流れの中”の意味が理解していただけると思う。

一般的に日本の家庭では自分の使う箸をきめて使っていることが多く、自分の箸が見当たらないからといって、家族の他の者の箸は使わないものだし、客人に家族の箸を出すこともない。欧米ではこのような感覚はなく、誰もが同じスプーンやナイフ、フォークを使うし、客人にも出す。先ほどのことと同じで、理屈ではなく、それぞれがお互い“当たり前のこと”と認識している。

つまり「自由」と「平等」も同じように、“血に流れの中”ではこのように大きく違うものなのだ。

 そこで、はっきり言ってしまえば、欧米の「自由」とは「人のものを略奪する自由」であり、「平等」とは「誰が先に略奪しても良い(順番の)平等」である。

随分と酷いことを言うようだが、これらを証明するには、何も難しい学説を説いたり、理論を展開する必要はない。欧米諸国が数千年前から自国において、また他国に対して、今までやってきたことを、歴史に沿って見て行きさえすれば、誰でも判ることで、今更に私が言うまでもない。

 私は、この「枠」でもって、己を縛り自戒していた、かっての良き日本人が「欧米の悪しき自由と、平等」によって目眩ましに会い、居なくなっていったのが、今だ!と言っているのである。

「(何をしても良い)自由」と、「(誰もが)平等」は、戦後どんどんと一人歩きを始め、本来ならば、世を導かなければならない立場の「官僚」や「政治屋」の意識にも巣くうようになる。

出来得れば、良き状態の家長制度を残せば良かったと思うのだが・・・、結果的に経済発展を続ける日本は、次に新たな(悪しき)欧米の仕組みをも導入し始めるのである。

    続く