Vol.11

 「〜その11〜」

 「平等」とは「同じ」であり「等しい」ことを言い「差がない」ことであるが、戦後の日本では、これに詭弁を用いてでも「無理矢理の平等」にしているものが沢山ある。この「無理矢理の平等」は本当に多くあり過ぎて、何から話そうかと思うほどであるが、まず「男女の平等」から話してみたい。

 「男と女は平等である」の謳い文句の下、今の日本では欧米を真似て「男女雇用均等法」のような不思議な法律が罷り通っているが、日本において戦前までは、まだ儒教の精神が残っていて、このような法律がなくとも良い社会を築いていたと思っている。

逆に言えばこのような法律がなかったからこそ、良き社会が形成できていたと言った方が良いのかも知れない。

ここで話は少し逸れてしまうが、儒教について少し復習してみると、皆さんも御存知のように、儒教は今から2500年程前の中国で孔子が始めた教えを基にしたものである。孔子の教えは「仁・義・知・信・礼」の五つ言葉を軸核とした教えで、その内容は、現在でも人が生きて行く道の手本として全く違和感を感じない優れたものである。

その中の「礼記」に「男女7才にして席を同じゅうせず」の言葉があり、意味は読んで字の如く、男と女は7才になったら同じ教育をするべきではないと言っているのだ。

何故彼はこのようなことを思い、書き留めたのかと言えば、色々と諸説はあるようだが、私は恐らく次のようなことが理由ではないかと考えている。

孔子は、男と女では全ての面において、全く異なる生き物であることを知っていたに違いないからであって、それはまず根本的な生理の違いに加え、体力・能力・思考・傾向など、あらゆる面で大きく違う、その差をはっきりと見極めていたからだと思う。

生物学の分類上では哺乳類霊長目に属する人間の男と女では、外見上の乳の張り出しと性器の形が違うくらいで、見た目はとてもよく似ていているから、同じ種の生き物だとと考えがちだが、これが大きな勘違いを起こす原因であって、体の仕組みと大きく違う頭の中を見ると、全く相容れない別な異次元の生物だと言って間違いない。

 私の独断と偏見の生物分類学は、さておいて、いよいよ「男と女の詭弁的無理矢理の平等」の実態解明へと進みたい、これが今日の主題である。

これを読んでもまだ「男と女が平等である」と言い張る諸氏がいるなら、そいつはタダの馬鹿だと言わざるを得ない、何故なら本当に平等としたら、人間界では女が活躍(生きてゆく)する場所がなくなる社会になるからだ。

まずスポーツの世界ではどうかというと、一般的職業としてはゴルフ・野球・テニス・相撲・プロレス・ボクシング・バスケット・サッカー・スケートなどだが、競馬の騎手・競輪選手・競艇選手も含んで捉えても良いと思う。

競艇では、ごく僅かではあるが女性の選手が男性の選手と同じ土俵の上で戦っているようだが、その他の競技では見たことがない。

他の全ての競技は、男子ゴルフと女子ゴルフのように、必ず男女別々の競技となっているが、これは何故かというと「男」と「女」がまともに同じ土俵に上がり競い合っても勝てるわけがないことを皆が知っているからだ。

と言うことは、「男」と「女」は同じではないことの証明を社会が認識していることになる。こう言うと、中には必ず反論する者(女)がいてこう言うのだ「男と女では体力が違うから、同じ土俵で競い合うことは平等ではない」と。

しかしこれは明らかに詭弁である。男と女では生まれながらにして基礎体力(骨格や筋肉の組織構造)が違うからこそ、生まれつき平等ではないのであって、「同じ土俵で競い合うことが平等でない」こととは次元(同じ土俵で論じる分野)が違う。

だから部分的結論を言わせてもらえれば、「体力では男は女に勝るから同じ土俵で競い合ってはならない」こととなる。この結論については、以前よくテレビに出ていた旧社会党の議員(何処かの大学教授をしていた)で、男を目の敵のようにしてボロクソに言う、見るからに不細工な者を含めて、誰も異論は挟むまい。

 では次に棋士(将棋・囲碁の職業人)について検証してみよう。棋士の世界もスポーツと同様に数百万円から数千万円のタイトル料をめぐって競い合うが、これは体力とはあまり関係がない領域だ。

しかし、体力に左右されないこの世界も男女別に分かれているのはなぜだ?。私的なことを言うようで申し訳ないけれど、私はスポーツが嫌いだが勝負事は好きなので、NHKの囲碁の時間(日曜日12:00)は必ず見るようにしている。

この番組では「NHK杯」というタイトルを競い合う勝ち抜き戦を放映をしているのだが、近年「男女同権(平等)」の意識に引っ張られたのであろう、女性棋士もこの競技への参加の門戸を開いたようで、女流本因坊や女流碁聖などが出場してくる

囲碁将棋は間違いなく体力の勝負ではなく頭脳の勝負の世界だ!。この世界では唯一「男」と「女」が頭脳を戦わせる見物が出来るから面白い。

女好きの私など、美人の棋士を見ていると、能面づらをしている不細工な男に何とか勝って欲しい・・・と切ない望みと淡い期待をもって見ているのだが、いつも期待は裏切られ、やはり勝てないのだ。

放映している対局の様子を見ていると、例え日本一のタイトルを持つ者(女)といえども、その仕草や顔の表情はとても感情的なので、やはり女の本性は隠せないものだと思ってしまう。

女性棋士の仕草や表情を見ていると、まるでパントマイムを見ているようなのでお伝えしてみる。しょっちゅう手で鼻を触り、口を塞ぎ、頬にも触る、そして癖もあるのだろうが一秒間に数回の瞬きを何度も繰り返す。

かたや男の方は優勢を意識してか、余り表情を変えない。まあ、男同士の対局を見ていても、たまにボヤキを聞いたり、扇子をパタパタさせる癖などは見るが、女性棋士が見せるような表情や仕草を見ることは滅多に無い。

ということで、この世界も男と女が同じ土俵で競い合えば、女は一生掛かってもタイトルなど手にすることは出来ないだろう。つまり、女を生かす(活躍させる・脚光を浴びさせる)には男女別に分けなければならないということになる。

実は他の分野(料理や文学など)全てにおいて同じで、とことん上り詰めたところでは、所詮女は男に勝てないのだ。だからといって、女を否定するものではないし、卑下することでもない。

この世において、男と女は「課せられた役割が違う」ことを認識して何事も始めなければならないのに、「悪しき平等と自由」はこれを無視しているから混乱を招いている。

この混乱は実社会において戦後から段々と酷くなってきたが、これは女の知識人が感情的になって叫ぶ「詭弁的自由と平等」を面倒臭いし、こんな女と議論しても仕方ないし「まあ、いいか・・・」と譲ってきた男の優しさが招いた“身から出た錆”的結果だ。

しかし、スポーツや棋士の世界では、はっきりと男女別の土俵で競わせるのに、一般社会では体力も脳力も異なる男女を同じ土俵に乗せるから話しはややこしくなってくる。

ここから、女特有の権利が「平等」にすり替わり、自分勝手な主張が「自由」にすり替わる詭弁が始まるのである。

                                     続きは後日